オーガスト 穢翼のユースティア エリスss『仔羊のショートロイン網脂包み焼き』(1/3)

穢翼のユースティア エリスss『仔羊のショートロイン網脂包み焼き』
説明:エリスルート、その後。
二章の終わりから一月ほど経った頃の特別被災地区
『穢翼のユースティア』は2011年4月28日発売予定です。



○ヴィノレタ・店内


薄い鉄扉を引くと煉瓦造の暖炉から明かりが洩れ出した。
足元に転がる火掻き棒を分厚いミトンで捕まえる。乾いた熱気が肌に迫る。火室の床には一面に真っ赤な熾火が輝いている。
中ほどにある白くなった薪の塊を、メルト・ログティエは軽く突付いてみた。

「むふふ……」
炉は燃え立ちごうごう低い音をたてている。
中心部では怒ったように荒々しく、端では舐めるよう薪をつたう炎の姿は見ていて飽きることがない。身体も芯から温かい。
ある晩のヴィノレタ。
カウンターの奥。調理場。壁側。暖炉の前にしゃがみこみ。メルトはうっとりと目を細めていた。
酒場の店主も楽ではない。
水に濡れた手は暖を求めている。
立ち仕事に疲れた脚は休息を求めている。せわしなく働いていた頭は癒しを求めている。お腹もちょっと減っている。
欲求の全てを満たしてくれる存在――その名を暖炉という。
仕事の合間につくる小さな幸せの時間を、メルトは一人噛みしめていた。
焚き口から踊り出た灰が鼻先を掠めてゆく。
黄銅製の火掻き棒はほど好い重みをもって手に馴染んでいる。ちょっとずつ、ちょっとずつ薪炭を切り崩してやる。一突きごと返事をするように炎の形は変わる。
真っ黒に焦げた薪の表皮を剥がし中に眠る紅色の熾を確認してやる。雑紙を投げ入れて灰を大量生産してやる。内壁の煉瓦をこつこつ打って火花を飛ばしてやる。
空気口を全開にしてアホみたいに燃え盛らせてやる。エプロンに燃え移りそうになりあわてて空気口を絞る。
どうだ嬉しいだろう、などと言いながら底に積もった燃えがらを脇に寄せてやる。それから、少し振りかぶる。
控えめな強さで掻き棒を叩きつければむわっとした熱気と共に薪組みが崩れ落ち、動揺する炎、舞い上がる白灰、すっぱいような炭の匂い、威勢良く散る火の粉。
木のはぜる音が耳を抜けてゆく。
長い溜息を誘われる。顔中の筋肉が勝手に弛んでいく。
酒を呑んでもいないのにメルトの頬はかっかと火照ってきた。サクサク炭の崩れる感触はいつまででも楽しんでいられる気がした。
そしてそのうちに、オーブンの羊肉は黒炭になっている。

「…………」
待った。
いけない。
まずい。それはまずい。
悲劇を繰り返してはならない。お肉を無駄にしてはならない。いつの日か心にそう誓ったのだ。
顔をしかめ名残を惜しみつつ、メルトはあと三十秒したら掻き棒を手放すことに決めた。三十秒はすぐ過ぎた。
割り木を一本薪棚から引きずって来て暖炉に放り込む。メルトの腕と同じ太さのナラ材はすぐにぱちぱち小気味良い音をたて始める。

「メルト。おかわり」
「はぁい」
甘ったるい声音で返事だけして済ませておく。そのうち自分で注ぐだろう。
晩のピークは過ぎ、現在ヴィノレタは深夜営業に切り替わっている。火酒やメチル酒など安酒に肴として肉物、スープを出す。後者は翌日の営業に回せない余り物だ。ラタトゥーユとタジンの残り汁を合わせて煮詰め、チキンの切れ端を落とせば若鶏の狩人風トマト煮込みとなる。そう言い張る。そんな類の料理。美味しいはずだ。文句は言わせない。

「メルト。おかわり」
再度、聞き慣れた不機嫌そうな声がかかる。それを聞くといつもメルトはもう少し煽ってみたくなる。
今手が離せないの。そう言うとすぐに舌打ちが返ってきた。にやけた顔を隠すように、暖炉へ向き直る。
耐火煉瓦で組んでモルタルで固めただけの小型暖炉であるが上部にはれっきとしたオーブンが据え付けてある。グリエから燻製、ケーキ、焼き菓子、ロティスリーまで対応できるこの万能選手とは店が始まって以来の付き合いとなる。観音開きの鉄扉は少し歪んでいる。
じゅうじゅう音をたてている両手鍋をゆっくり引き出すと視界は蒸気に包まれる。
そしてその向こうに、こんがり茶色に焼けたブロック肉が姿を現した。鍋の底には透明の肉汁がいやというほど溜まっている。スプーンでそれをすくって塊にかける。塊にかける。
おいしくなって。なりなさい。なってください。香ばしい肉のかおりが広がる。表面に刺した大蒜とローズマリーは火が通りすっかり中に埋もれている。
もう少し焼け具合を検討してみる。
加熱により気持ち膨らんだ肉は部分ごとにやさしく円みを帯びている。表面に走る濃茶色の焦げつきは内に満ちる豊富な肉汁と、同時にその緊張を予感させる。並の肉では低温グリルでこうはならず、赤みがかった水気がだらしなく流れ落ちていくだけであって、聖教会の十字に似たそのしるしはあわれみ豊かな聖女様の秘蹟とも、永遠の命とも、恩寵の証であるとも人は拝み讃えるかもしれない。しかしメルトは難しい顔で腕を組む。
一歩横にずれ別の角度からも観察してみる。鼻を近づけ匂いをかぐ。スプーンで軽く突付いてみる。脂の粘度を指で確かめる。首を傾げる。また角度を変える。肉汁をすくい蝋燭の明りに照らす。眉根を寄せ、なにか考えるような素振り。料理用語をテキトウにつぶやき、まわりをぐるぐる歩き回る。そうして飽きるまで楽しんでからメルトはうむ、とひとつ頷く。実に有意義な時間である。ヴィノレタではいつも誰かに見られている。溜めて溜めてからうなずくほうがシェフっぽい気がしている。

「ふんふ、ふん……、らら……」
慎重に鍋を持ちあげ向かい側、調理台の上まで運ぶ。
スプーンで肉塊を浮かせ隙間にターナーを滑らせる。そのままボロ布を敷いたバットにどかん、と移す。奥で脂がまだかすかに音をたてている。上からも布をかける。
後はその身を縛りつけているタコ糸を切ってやるだけだ。冷めるのを待とう。明日の仕込みも一段落。待て待て。具体的にはどうしようか。フォンで作ったソースがいくらか残っている。半分はそれで煮込もう。肉汁は何に使おうか……。

「ねえ、紅茶もらったから」
「はぁい。まいどどうるる……ふふんふん、ふん……」
「なにニヤケてるのよ。気持ち悪い」
慎重に考えてやる必要がある。何しろ仔羊の鞍下肉だ。年に一度仕入れられたら幸運という品なのだ。
羊は臭くて固くて筋がある、そんな既成概念をこの肉は一瞬で打ち崩してくれる。代用品?臭くて色の悪い牛?馬鹿を言ってはいけない。コクがあるのだ。コクが。しいて言えば牛テールに近いかもしれない。口の中でほろほろとけていく感覚は誰かの人生を狂わせるかもしれない。下焼きも万全。明日には熟して甘みを増していることだろう。
鼻腔をくすぐる芳醇な香りを肺の底まで吸い込めば吐いてしまうのが惜しくなるし、パリッとした焼き面に目を転じれば焦げついたナツメグ、グローブを吸い取りしたたる脂たちの健気な姿。これにはほくほく顔も禁じえまい。この肉汁は世界を平和にするに違いない。メルトはそんなことを確信する。

「ねえ、聞こえてる?貴女よ、そこの脂臭い店主」
ところが、目の前の友人には別の意見があるようだった。

「気持ち悪いから、人の目の前で、下劣なにやけ顔晒さないでくれない。気持ち悪いから」
「誰が下劣なにやけヅラよ」
「あ、聞こえてた」
「そりゃ聞こえますとも……」
メルトは顔を上げる。
すぐ正面にはエリスが座っている。その顔を見つめて言う。

「下劣ってエリス、それ私のこと言ってる?」
「もちろん」
エリスは上目遣いに、真っ向から見返してきた。

「気持ち悪いのよ、貴女」

「心の底から言わせてもらうけど、メルトの顔って気持ちが悪い」
「なにそれ?」
「ゆっくり喋れば聞き取れるかな。品性のかけらもない、だらしのない、直視に耐えない助平ヅラ。理解出来る?」
「ちょっと理解に苦しんでる」
「中身まで腐ってるの?こんな簡単なことも分からないんだ。いい。前から思ってたけど貴女って笑顔が不細工。見てると不愉快。お願いだからやめてもらえない。にやつきたいなら便器にどうぞ。なんなの。媚売って稼ぐしか能の無い商売女。不快極まりない。ナメクジの交尾を目の前で見せられてる気分」
「ほお……」
「ふふん」
「ねえ、その最後から一個前の。いや。やっぱり最後の。聞いていい?……それ。どういう意味かしら」
「教えてあげる。メルトの顔って害虫に似てるねって意味」
「エリス」
「なに、粘液でも出したい?」
「……もう少し言葉を選べない?あんまりね。面と向かって人にそういうことは言わないと思うんだけど」
「事実を告げてるだけ。自覚してないの?鏡で見てきたらどう?それで感想を聞かせてくれる。自分のにやけた顔の気持ち悪さについて……」
エリスは待てよ、と首を傾げ、補足する。

「うすらにやけた小汚い顔の気持ち悪さについて」
「汚くはありません」
「貴女自分の顔を目視できるの?できない。顔を見ているのは私。その上で言うけど貴女の顔は小汚い。嫌らしい目尻と醜い口と薄汚れた色の歯。不衛生。この店と一緒ね」
「ちょっと。お店は関係ないでしょう?」
「それはごめんなさい。なんとかしてメルトに、貴女の顔残飯みたいにぐちゃぐちゃだって伝えたかっただけ」
「……言いたいことはわかったわ。エリスはそう思うのよね。わかるわ。承りました」
「わかったならその残飯ヅラなんとかして」
「でもね。出来たらでいいんだけど。一般的に、これについてはね」
メルトは一応提案してみる。

「ほほえみって言ってくれない?」
ふん、と鼻先で笑う音がカウンター越しに返ってくる。メルトはもう少し頑張ってみる。

「それはきっと、この街で暮らしていく上で大切なことだと思うのよ。にやけづらじゃなくて微笑み。なんの花に喩えられましょう」
「無理」
「無理じゃないわよ」
「無能」
「エリスのほんの些細な注意でね、この世に幸せな人間が一人増えるの。それって素敵なことじゃない?ほらほら、こんな風に」
「下品な微笑み」
「おまけが余計です」
「下品」
何か文句あるわけ、という顔でエリスは下唇をちろりと舐める。
隣の椅子の脚を蹴る。ことさらに音をたて茶をすする。テーブルにどんと両肘を突いたその姿は態度の悪い客の鑑のようだった。口は悪態の湧き出る井戸と化している。どうやら、とメルトは頭の中で確認した。機嫌は良くはなさそうだ。

「ほんっと、下品な顔」
「下品下品って、あんまり連呼しないでくれる?そんなことありません。七分咲きの椿の花束を私にくれた人がいてね、彼は言ったものよ。来る途中で摘んできたんだ。君の笑顔はこの花にそっくりだね……」
「それは貴女が若い頃の話」
「知ってる。知ってます」
「それは結構」
「自分の歳は知ってるし、自分の顔も自分でわかってる。笑顔の練習なんて頬が攣るまでやったもの」
「あ、そう」
「エリス興味ある?教えてあげようか。練習って言うと、こうね、唇を歯の内側に巻き込んでから〜ぴったり閉じるでしょ。ほして、むごんご」
「人語で喋って」
「顔の筋肉って全部繋がってるからね。一にして全なり〜。全にして一なり。正しい笑顔は首から始ま、うわ。なんか懐かしいかも。こう頬っぺたの内側を吸って、歯で挟んでやって……、興味ない?」
「心底興味ない」
「まあ聞きなさいって、聞いてよ。舌を使うのもあってね。顎を引いて舌先を立てるでしょ?それでぺったり歯の根元につけて、ぐるりと、やるのよそうそうやった、やった。えくぼは作ってから見せるんじゃない、作るところを見せるんだ〜とか、それから小鼻の横を動かさない笑い方よね、控えめなやつ。これが意外に役に立つのよ?ああ、懐かしいなぁ。あとはねぇ……」
「沢山あるんだ」
「知りたくなってきた?ちゃんと教えてあげるってば。言っちゃなんだけど私、結構な修行を積んでるからね?」
「ふうん。修行」
「そうよ?」
「なるほど。じゃそのついでに、助平根性丸出しの下卑た笑いも練習したんだ」
「した覚えはないわね」
「よかったじゃない、役に立って」
「……してない」
「でなに。興味あるから教えてくれない?舌のなにをどうしたらそんな低劣な顔になれるんだっけ」
――分かっていた。
挑発されているのは分かっていたがぴくり、と自分の眉が跳ね上がるのをメルトは感じた。

「こう?それともこう?やってみせてよ。笑えそうだし」
さっきから。何度も何度も繰り返し。
――女性に向かって笑顔が下品と、それはいささか失礼じゃないの?
愛嬌のある笑顔にメルトはいくらか自信があるのだ。
笑えそう?誰の顔が?低劣な?小汚い?
助平根性丸出し?下卑た?下劣な?残飯みたいな?不衛生な?皺の寄った?ナメクジの交尾に似た?ほほお?
安い挑発だ。メルトは手を止めた。エリスの顔をまっすぐ見つめた。するとエリスは応えるように口元を動かし始めた。声は発せず口形で、彼女はなにかを告げてきていた。
た、る、み。
し、み。し、わ。
こ、う、ね、ん、き。
む、だ、な、あ、が、き。
み、そ、じ。
げ、ん、じ、つ。
く、だ、り、ざ、か。
よ、る、と、し、な、み。
か、こ、の、え、い、こ、う。
ひ、げ、は、え、て、な、い、?
ひげね、ひげ。とメルトは繰り返した。なるほど。ホルモンバランスは大切だ。メルトは殴るのにちょうど良さそうなものを探した。挑発されている。それは分かっていたが頭の中に張ってある糸のようなものがぷつんぷつんと切れていくのも分かった。
まあ、焦点を一つに絞って攻めるのは悪くない選択だ。年齢。年上の女性の怒りを買いたい時それは妥当な方策と言える。そこにはあらゆる負の感情が詰まっているし、自分が『お姉さん』のカテゴリからはみ出しつつあることには底知れない恐怖を覚えるし、日々傷つき、憤り、抗えない無力感に包まれているし、やがてそのことを考えないようになる。寝起きで鏡を覗くのにはいくらかの勇気が必要だ。ねえエリス。表に出てみようか?
続きは表でしようか?どっちがナメクジに似てるか比べてみようか?食塩叩き込んでほしいのかな?そのかわいい口に?カウンターに身を乗り出した。自分の口がいい度胸じゃない、と喋るのをメルトは聞いた。遅れて思った。エリス、いい度胸じゃない。
同じことが明日も言えるか試してみようか?下品?老化?性周期の乱れ?へえ?ふうん?ふふふ?このこと?ねえ気持ち悪いってこの顔のこと?その時、メルトの目は確かに笑っていなかった。

「…………」
しかし、結局メルトは何も続けずに、口を閉じることにした。
争いは何も生み出さない。
メルトは思った。肉汁の匂いが相変わらず周囲をやさしく包んでいた。
甘いかと訊かれたら甘くないと答えるが甘くないだろうと決め付けられるとそんなことはないと反論したくなるような匂いだった。友愛、アガペー、涅槃などという概念を言葉に頼らず訴えてくるような匂いだった。その薫りはどこか懐かしくメルトの胸に迫った。それで一瞬、心が落ち着きを取り戻したのかもしれない。
らしくない。何を熱くなっている。歳を取っているのは事実だ。それでも自分の笑顔はなかなかにそれなりの輝きだ。今日だってウインクひとつで野菜が安くなった。まだまだ捨てたものではない。むしろ、そう、むしろこれからと言える。ハリツヤだけが正義ではない。年代とともに深みを増す、そう、喩えるならアンティーク。年の瀬から来年にかけてというもの妖艶な感じの魅力がにわかに立ち居姿ににじみ出て野菜もさらに安くなることしきり一片の疑いをいれるものではない。
メルトは深呼吸とともに自己暗示を繰り返す。そのたび胸の奥まで優しい肉汁の薫りが染み込んでくる。頭に昇っていた血が少しずつ引いていくのを感じる。視界が広がり、肩の力が抜け、握っていた拳も自然とひらく。我に返り普段の冷静さを取り戻す。そうして自身の置かれた状況を改めて認識する。メルトは強く意識する。
自分は『観察』されている。
エリスの舐めるような眼差しがこちらを向いている。
それは粘着質の光を帯びている。まばたき一つする気配は無く、欲望に濁り、獲物がかかる刻を狙っているように見える。目が据わっているのはなぜだろうか。アドレナリンに頭が支配されているせいだ。或いはクスリでもキメている。頬を刺す視線に身の危険と、こいつを食い物にしてやろうという意図を強く感じる。
それは農場の空を旋回するイヌワシに似ている。ヒトほどもある翼を広げ滑空するその姿は悠然としてそれ自体を目的としているかのよう心地よさげである。それは日常であり、いつまでも続く遠い世界の出来事であり、やがては空と同じ背景となる。その実猛禽の描く円は大きくなり、小さくなり、地上からの遠近感を僅かずつ狂わせている。何時間でもそうして待ち構え隙を見せた瞬間家畜を襲う。イヌワシは狡猾な鳥だ。余さず肉を喰らい去ったあとには引きちぎられた内臓だけ赤く残される。
視界の端で、エリスの燃えるような舌がちろり、と下唇を這うのが見える。
普段から決して立派な性格とは言えない。しかしこの友人も娼館街に暮らす以上、女性に言っていいことと悪いことくらいはきっとわきまえている。
線を土足で踏み越えるならば、とそうしてメルトは確信する。
彼女は戦いを求めているのだ。

「ヒゲ生えてきても心配ない。更年期になったら誰もが経験する。メルト、安心していいよ。女として死を迎えているだけだから」
思い返してみると、店に入ってきた時からエリスの態度はその兆候を示していた。
外套を脱ごうともせずカウンター前にふんぞりかえり、一人で三席を占用し、給仕の女の子を睨んでは悲鳴をあげさせていた。
「お茶。温かいの」という短い注文の合間に四度は舌打ちが聞こえたし、それからゆうに一時間は黙っていたし、そのくせ口の中でぶつぶつ呟いていて、頬杖をついた顔は醜悪に歪んでおり、わざと紅茶をこぼしては拭きなさいよという目で腕を組み、拭いてやれば礼のかわりに舌打ちを返し、店主が忙しくしている目の前で店の壁掛け灯を外し、その火と店のアブサンで注射針の消毒を始め、やがて店のオリーブオイルと店の台拭きでサンダルを丁寧に磨きだした。
彼女の不機嫌には何段階かあるがそのうちの「大」側から数えた方が早いのは間違いない。どこか張り詰めた空気を居姿にまとっている。そしてそうなると、多くの場合、なぜかこうなるのであり、どうやら自分はストレス発散に使われようとしているらしいと、メルトはぼんやり感じ始めた。

「ふむ……」
経験的に知っている。仕事が面倒だ、カイムに冷たくされた、朝布団から出たくない、とかつては毎週のように八つ当たりをされていたからよく知っている。そう考えると少し懐かしくもある。

「エリス?なにをピリピリしてるのよ」
接客用の笑顔をつくり、努めて柔らかい声でメルトは訊いてみた。

「気に入らないことでもあった?」
「別に」
「別にってことはないでしょ。人のこと下品だの、下劣だのって」
「思ったことが口から出ただけ。慾に溺れた助平ヅラが見えたから。薄皮剥がしたら膿が貯まってそう。メルトってよく見ると寄生虫みたいな顔してるね」
「語彙が豊富ね?」
日中嫌なことがあったのだろう。
それなら仕方ない。不機嫌にもなる。酒場の店主に当たりたくもなるかもしれない。メルトは天井を見上げる。頼られているようで愛らしく思えないこともない。

「よく、欲か。そうかも。欲には確かに溺れてたかもしれない」
「ほらみなさい。不快極まりないの貴女の助平ヅラは」
「スケベというか食欲だけどね」
「一緒よ。にやけてた」
「そうね、はいはい。にやけてたかもしれない」
「はいはい、ってなに。まだ自覚してないわけ?メルトって多分脳梁千切っ」
「もう……」
ぱしんとメルトは両手を合わせ、エリスを遮る。

「私のことはいいじゃない。それよりもっと楽しい話をしましょう?」
肉塊の乗ったバットをカウンターの前へ滑らせる。
上から被せてあった布巾はすっかり脂を吸い肉に親しげに貼り付いている。肉汁の重みを感じながら、エリスの目の前でそれを勿体をつけてめくっていく。チラ見せしては戻す。めくるわよ、とみせかけて今度はめくらない。

「どう?おいしそうな匂いでしょ」
辺りを包む濃厚なようでいてどこかキレがあり鼻の奥へ爽やかに抜けていく脂の薫りはまさに垂涎必至の出来栄えで、前髪を払うエリスの表情を窺いつつ、メルトは思ったのだ。ささくれ立った彼女の心もこの肉汁はきっと溶かしてしまうに違いない。

「実は、明日はねぇ、なんと」
メルトの声は興奮にややうわずった。

「待ちに待った……羊祭りよ?」
「あのねえ」
でもやっぱりエリスには違う意見があるらしい。

「臭いのよ人の目の前でさっきからじゅうじゅうと」
「く、くさい……?」
「臭い」
「うそよ……」
「真実」
「ラムよ……?」
「私は人間。貴女みたいな獣の世界観で生きてないから」
「よ、涎を誘わない?」
「ニオイでもうお腹一杯」
いっぱい、とスタッカートを入れ言い切ってもう話す気は失せたとばかりにエリスは耳を弄り始める。
閉じた口がもごもご動いている。誰かか、何かに悪態でも吐いているらしい。汚臭、メルト、脂キチガイ、など不穏なワードが漏れ聞こえる。分かりやすく顔を歪め不快さをアピールしてくる。その割に調理台の前を離れるつもりはなさそうだった。何がしたいのか分からない。
メルトはやれやれ、と誰にともなく呟いてみた。


○ヴィノレタ・店内


「それじゃ、すみません。お借りしていきます」
「いいのよ。また明日よろしくね」
「お疲れさまです、店長」
ケープを羽織り出て行く少女の背中にメルトは小さく手を振った。
扉が閉まり、肌を撫でていた湿った外気の感触が消えていく。ほっと溜息をつく。背中を伸ばすと自分のことながら妙に悩ましい声が漏れる。
通りは雨。
日没とともに訪れた雲はノーヴァス・アイテルの空に腰をどっかり落ち着けた。降り続く細雨に夜闇は煙り街の気配はかき消えている。廂から落ちる雨粒の音が窓越しにくぐもって届く。
道が悪くならないうちに帰りたいのだろう、数刻前には雨宿り客でぎゅうぎゅう詰めとなっていたヴィノレタも今はすっかり落ち着いている。
店内の客は二人にまで減っていた。
奥まった席で火酒をちびちびやっている老人、とエリス。エリスはカウンターに座り、店主にガンを飛ばしている。
羊の唄を口ずさみながらメルトは鍋を流しに運ぶ。
通いの給仕の子は人通りが無くなる前に帰したい。今日のように客のさっと引ける日はありがたい。

「ね、まだ居るの?」
今日は早めに閉めてしまおう。そのつもりで表にはClosedの看板を既に出してある。

「エリス?」
エリスは老婆のような仕草で首筋を叩いている。
返事を待ってみるが反応する様子はない。しらじらしく無視される。大人しくしているからには少しは機嫌が直ったのかとも思ったが単にストックが切れただけかもしれない。顔を近づけてエリス、エリス、エリスさんと三度名前を囁いてみる。無視される。

「……エリスせんせ?」
「やめて。気持ち悪い」
「ふふ。まだ居るの?外套なら貸してあげるけど」
「もう少し待ってみる」
そう言ってエリスはカップに口をつける。
覗き込むと濃い目の紅茶にクラリセージを浮かせている。ハーブは持参品だろう。

「こっち見ないで。その大きな顔邪魔だから。暇なの、メルト」
「暇じゃないわよ。調理場片付けないと。でもその前にちょっと休憩」
「あそう」
「火落としちゃう前に、ご注文があるならどうぞ?お茶、淹れなおそうか?ご飯は?お腹へってない?軽いものがいい?レンズ豆きらいだっけ?」
「暇なんだ」
「暇じゃないわよ。お店の片付けしないと」
「……ああ、じゃあ一個お願いできる。面倒かもしれないし、手が空いたらでいいんだけどこのうす汚い肉塊外に捨ててくれない」
「丁寧に頼まれても無理かな」
「じゃどっかやって。もたれそう」
「早く冷ましちゃいたいし。ここが一番風通しいいのよ」
「外のほうが絶対いい」
「はいはい。分かった。じゃ奥のテーブルでいい?」
「駄目。私の視界に入るから駄目」
「……あなたが移動しなさいよ」
「私は客よ」
「うそ。お金払わないくせに」
「払わなきゃ客じゃないわけ」
「そうです。決めた。少なくとも、今日からそうしようと思います」
「それ横暴」
「ツケって魔法の呪文でもなんでもないのよ。ちりも積もれば山となってね、善良な店主は困っています」
「払わないとは言ってない。払う。いつか」
「こんな言葉を送りましょう。万里の道も一歩から。いつかっていつ?」
「いつか教えてあげる」
「そう。ま……、別にいいけど」
「言った。いいって言った。今この瞬間ツケ金ゼロになったから」
「いいわよ?でもその代わり、お肉は冷えるまで動かしません」
「悪徳店主、ぼったくり」
「いい匂いじゃない」
「非正規店、おさわりパブ、食中毒」
「嫌ならどうして真っ正面に座るのよ。実は気になってるの?」
「なってない、トランス脂肪酸、心臓麻痺」
「今この内側でね、閉じ込められたお肉の旨みがぎゅっと固まってるところなのよ。明日にはもう大変なことになってしまうの」
「へえ、すごいね。お笑い。安い肉使ってるくせして。熟成?味なんて変わらない」
「あら。カイムはこれ好きなのに……」
「大して好きじゃない」
「軽く炙って出したらがつがつ食べるわよ?」
「食べない」
「ざっくり切ってシチューに入れても喜ぶし。串焼きにしたらお酒が進むし。でもやっぱり一番はタジンよね、食いつきが違うもの。出した瞬間喋らなくなって、子供に戻ったみたいな顔して、もう口いっぱいに詰め込んで」
「チッ……」
「私に凄まれても。しょうがないでしょ。好きなものは好きなんだから」
「話しかけないで」
「よかったらレシピ教えるけど?」
「いらない」
「こないだあげた料理本にも載ってたような。頁は、確かねぇ」
「だからいーらーない。メルト、手が休んでる。仕事して」
「ふふっ。はい、はい」
「はいは一回」
はぁ〜い、と間延びした声を出すとすぐ針のように尖った視線が返ってくる。
エリスの反応は実に律儀だ。上目遣いで睨まれるとメルトの頬は勝手に弛んでいく。

「ちなみにすこしだけ余ってるんだけど味見してみる?煮込み」
「してみない」
ピリ辛のつもりだったんだけどやたら辛くなっちゃって。おかげで麦酒が売り切れ。レバームースも売り切れ。こっそり値段上げておくんだった。惜しいことしたわ」
「…………」
「しかもね、変に好評なのよ。辛いのは私、苦手なんだけど仕方ない、またやらないと。カイムも確か辛党よね。性別違うと舌も違うのかしら。どう、食べない?ワイン足したから今は結構まろやかよ?」
「…………」
「エリスって、鶏料理と炒め物はするでしょう。だから次は煮込みに挑戦してみるのはどうかなって思うのよ。慣れれば簡単だし、味の調整きくから失敗らしい失敗はしなくて済むし、二人分で作るのは少し面倒かもしれないけど、どうかしら。今日のも難しくなくてこれ、ピピシュって言ってね、パプリカと、」
「ねえ。思うんだけど、メルトって少しは黙ってられないの?」
「トマトがベースの……」
「取持ちにでもなったつもり?偉そうな顔して、カイムと私の暮らしにいちいち首突っ込んでこないで。頼んでない」
「あら」
「メルトに。口出されなくても私は料理出来る」
「でもおいしい方がいいんじゃないかなって思うのよ」
「……それどういう意味」
「お耳に入ったとおりよ?」
「へえ。ふうん」
「別にエリスの料理にどうこう言いたいわけじゃなくてね。ただちょっと、ほら、栄養を摂る以外にも食事の役割ってあるじゃない」
「どうこう言ってる」
「私としては今まで通り二人にご飯食べに来て欲しいけど。エリスは三食作りたいんでしょ?カイムのご飯。それだったらおいしいもの作るか、作れるように努力していくか、どちらかしたほうがいいんじゃないかなって」
「なるほど」
「わかってくれた?」
「よく分かった。そういうこと。メルト、嫉妬してるわけ」
「うーん……」
「私に妬いてるんだ。カイムに選ばれた私に。哀れね。貴女の付け入る余地はもう無いから」
「付け入る?そうなんだ」
「カイム言ってた。私の料理は味があるって」
「そうなんだ……」
「カイムが満足してるんだから負け犬は横から口挟まないで。ピピシュ?パプリカ?そんなもの食べなくても生きていける。死ぬって言うの。野菜炒めと鶏肉食べ続けたら死ぬの?」
「死にはまあ、しないかも」
「ほらみなさい」
「飽きられちゃうけど」
「チッ……」
「毎日同じものだと飽きが来るわよ。食べ物に限らず、何でもそうでしょ?」
「何でもじゃない」
「ホントにぃ?」
「何が言いたいわけ。ハ?何が言いたいの」
「いずれカイムも飽きちゃうんじゃないかなって。エリス、おっと、エリスの料理に」
「喧嘩売ってる?」
「まさか。料理の話。ヴァリエーションって大事じゃない?」
「まるで不要」
「味覚って変化しか捉えられないからね。多彩すなわち、美味しいなのよ。つまり逆に言うと」
「逆に言わない。同じものでも飽きたりしない」
「エリスはそうかもね」
「違う。少なくとも」
エリスは言う。

「私はカイムのためだけに作ってる。カイムもそれ分かってくれてる。貴女の不特定多数向け食品と一緒にしないで」
「なるほど。料理は味だけじゃないと」
「カイム、満足してる。私の料理食べて喜んでくれてる」
「努力をしない言い訳よね」
「ハ……?」
「やっぱり料理の腕って、経験に比例するのよ」
「勝手にそう思ってれば」
「おいしいものって大体誰が食べてもおいしいじゃない」
「関係ない。カイムはもう私の作ったものしか食べない」
「エリスの前ではね?」
「何が言いたいわけ」
「別に何も」
「じゃ黙ってて。外野は死んで」
「一応、アドバイスのつもりなのよ」
「必要ない。邪魔。おせっかい。メルトに何が分かるの?カイムと一緒に暮らしてるのは私。カイムのこと一番よく知ってるのは私」
わたし、でエリスはカウンターを三度叩く。

「私の料理は完成されてる」
「ふうん。まあ……、そう言うんならそれでいいけど?」
聞こえるように呟くと瞬間エリスのまなじりが目に見えて吊り上がる。
そのままぴくぴく跳ね始める。何かのバロメータになっているらしい。ハ?とかああん?など口の中で言い始める。少し加減を間違えたかもしれない。また嫌われたかも、と思ってしまう。
特別エリスを怒らせたいわけではなかった。
彼女で遊んでいるわけではない。ただ会話をしたいだけだ。理由は分からないが今日のエリスはひどく苛ついていて、どうにも見ていられない。
ストレスを溜め込むのは肌によろしくないし、そばにいて楽しくもない。嫌なことがあった時は黙りこくっているよりもお喋りして発散した方がいいに決まっている。遠い昔の童話みたいに。穴に向かって怒鳴ればいい。口にしちゃえばすっとする。そうしてエリスの気を楽にしてやりたかった。
多少煽るような形になってしまったのも必要悪のつもりで、特定の人物についてであるとか、料理で攻めれば彼女が食いついてくるのは分かっていたし、たまたま適当な話題が浮かばなかったこともあるし、あわよくばレシピを教えもしたかった。自分なりにエリスのためを考えてはいるつもりである。
それでも、とメルトは目を伏せる。
加減を間違えれば全て台無しなのかもしれない。エリスは歯を剥いて威嚇してきている。
他にやり方があったのかもしれない。彼女のことをいくら考えていようとも関係はない。油を注ぎすぎだ。ストレスを増やしてどうする。コンプレックスを突付くようなやり口も褒められたものではない気がする。怒らせたいわけじゃない、とメルトは少し反省する。しかし思うに、エリスにも原因があるのだ。エリスが悪い。
エリスの反応が律儀すぎるのがいけない。メルトが一言喋るたび飢えた番犬が噛み付いてくる。それでつい餌やりかなにかのつもりで含みがあるようなことを言ってしまう。
その不愉快そうに下唇を摘む仕草といい、ぎゅっと寄った眉頭といい、怒りをなだめるような半笑いの顔が作った瞬間固まってそのまま唇のすそのひくひく引き攣る具合といい、苛立ちを表したいのか力任せにスツールを蹴りつける音といい、リズムといい、徐々に本気になってふん、ふん、と漏れ始める息といい、損害を与えようということだろう、人の店の備品を当たり前のように壊そうとするその思考回路といい、たまに快心の一発が入ったのか浮かぶ邪悪な笑みといい、堪らないものがある。自分がこの表情を引き出したかと思うとなにやら達成感すら覚えてしまう。細大漏らさず絵に描いてやりたい。それで子々孫々語り継いでやりたい。
彼女のためであってね、別に怒らせたいわけじゃないんだけどね、と目を伏せ考えるメルトの口はだらしなくにやけていたかもしれない。

「聞きたいんだけど」
テーブルにどん、と肘を突きエリスがまた噛み付いてくる。

「どうしてカイムって外でご飯食べてくるわけ。それもこんな店で」
「エリスの料理で満足してるハズなのにね」
「そうよ」
「家に帰ったら可愛い恋人と温かい手料理が待ってるのよね。味が問題とは思えない」
「分かってるじゃない」
「なら、店主の顔が見たいんじゃない?」
「見たくないから」
「毎日顔を出して、お金も貢いで、振り向かせようとしてるのよ。健気じゃない。初恋って尾を引くからね……」
「引かないから。引いてない」
「また口説いてきたりして。昔みたいに夜部屋に忍び込んできて、あら。たいへん。困っちゃうなぁ、どうしようかしら……」
「ど、う、も、し、ない」
「そうねぇ。顔は好みだし、ちょっとくらい遊んであげてもいいかなぁ」
「チッ……」
「むふ、出た出た」
「調子に乗らないで。ここは飯屋。カイムはただご飯食べに来てるだけ」
「なんだ。わかってるんじゃないの」
「チッ……?」
「エリス。まずはトマト煮込みでどう。難しくないから練習してみましょう?」
「余計なお世話」
「無理にとは言わないけど」
メルトは本心からそう言った。

「少しは力になりたいのよ」
「……馬鹿にして」
曇った窓の方を向きエリスは動かなくなる。
また返しを誤ったかもしれない。思えばずっとエリスの料理はおいしくない前提で話していた気がする。実際のところエリスの作る鶏肉の香草焼きは美味しいの域にとっくに達していて、問題は味というより、レパートリーが一日分しかないことだったり、毎日の感謝を伝えようとしないカイムにこそあるような気がする。おかげで一向にエリスのコンプレックスが解消されない。するとつい突っつきたくもなる。
いちおう、とメルトは思う。レシピを守れ、繰り返し味見しろ、そういった基本は教えてあるのだし、守る気がさらさらないのを除けば基礎は出来ている。「愛情が調味料」「塩は切れてるけど」「差し引き問題ない」根本的な処で彼女は料理なんて食べられればどうでもいいと思っている節がある。それでも鶏肉の焼き加減は習得出来たのだから継続すれば前へ進める。
エリスが素直に受け取れないのは教えるのが自分だからかもしれない。人に頼むとしたなら一体誰がいいだろうか。ティア?クローディア?鉄鍋を洗いながらメルトはしばし思案していた。
その時向かいで女医者がああっ!と手を打ち立ち上がった。

「メルト。幾ら。つけてた分合わせて」
エリスは両手でポケットを漁っている。硬貨を掴み出してはテーブルに置いていく。

「幾らよ。お代。全部払ってあげる」
「お代?」
流しの水を止めメルトは、全部払ってあげる、と復唱する。少し頭がぼんやりしていた。
エリスは金を払おうとしているらしい。

「お金?え、なに?急にそんな。いいわよ……」
声が裏返る。
いいわけはないのだが、エリスが客のようなことを言っている、それをメルトの脳は認識してくれなかった。今更払われても。反射的にそんなことを口走ってしまう。その間にも目の前に硬貨は積まれていく。

「幾らよ」
「ええと……、そうね。つまり……」
「つまり」
「か、帰るの?」
メルトは急に不安になってきた。

「お肉のニオイ、そんなに駄目だった?ど、どかそうか?レモン水飲む?」
「別に。肉臭いけどいい。で。幾ら」
「エリス?どうしたのよ、いきなり」
「どうもしない」
「本当に?」
「どうもしない」
「どうかしてるわよ。エリスがお金払うなんて」
「ごく普通。一般的客の行動」
「ううん……」
「元々お金に困ってるわけじゃない」
「知ってるけど。でもほら、ずっと支払い拒否してたのに」
「あれは嫌がらせ。潰れたらいいなって」
「帳簿見てもらえる」
「なにそれ」
「そこに、ほら。棚のところ。エリスの名前は前の方かな」
「面倒」
「じゃあ洗い物、終わるまで待ってて」
「客を待たせない」
「……それもそうか」
「きっちり計算して。耳を揃えて払ってあげる。びた一枚まけなくていい」
「その点はもう、おまかせあれ」
「で、カイムのツケも私が払うから」
「はい、はい。お好きにどうぞ。……ごめん、なにって?」
「カイムの分も私が払う。だって、私とカイムは家族だから。家族ってそういうことよ。家族ってそういうこと」
ふふん。気に入ったのか二度繰り返しエリスは勝ち誇った顔をした。その目が何故かザマアミロと笑っていた。

「金の切れ目が縁の切れ目よ。カイムに二度と近づかないで」
「……なにか違うわよ、それ」

(つづく)
『仔羊のショートロイン網脂包み焼き』(2/3)