オーガスト 穢翼のユースティア エリスss『仔羊のショートロイン網脂包み焼き』(3/3)

穢翼のユースティア エリスss『仔羊のショートロイン網脂包み焼き』
説明:エリスルート、その後。
二章の終わりから一月ほど経った頃の特別被災地区。メルト、一にして全を知る。
『仔羊のショートロイン網脂包み焼き』(2/3)のつづき
『穢翼のユースティア』は2011年4月28日発売予定です。



○回想・娼館街・裏路地


夜。
霧雨。
立ち並ぶ娼館。
人気の無い裏路地。
二階の窓から窓へ綱が張り渡されている(普段ならば下着や布類が干されてある)。ロープを伝い雨滴が点々と落ちる。
その内の一つの窓、静かに開く。
漏れ出る黄色い明かり。ガタゴトと物音。次いで、人影が外へ飛び出る。水を跳ね路地に着地する。
人影、立ち上がり、二階を見上げる。
窓、身を乗り出し手を振っているクローディア。笑顔。


○回想・特別被災地区・街路


雨。
足早に路地を行くカイム。
懐手のまま上体をいくらか倒し、俯いて歩く。外套の襟を掻き合せ、寒そうに身震いしてはまた歩みを早める。


○回想・特別被災地区・カイム宅


ノックも無く開かれる木戸。
濡れ鼠のカイム。疲れた様子で椅子に腰掛ける。脚を投げ出す。

「おかえりなさい」
エリス、明るい声で。
大判のタオルを持ってとてとて近寄り、カイムに手渡す。男物のマグを素早くテーブルに出す。火酒を注ぐ。
カイム、乱暴に髪を拭く。エリスが注ぎ終わると同時、火酒のマグに手を伸ばす。タオルを頭にかけたまま一気に呷る。溜息。
酒を注ぎ直すエリス。
カイム、マグから手を離さず、一口呑んでは目を細める。
エリス、カイムの後ろに回る。銀髪を撫でるように拭いていく。

「遅かったね」
「まあ」
「見回り?」
「ああ」
「お疲れさま」
「おう」
「……泥が跳ねてる」
エリス、慌ててカイムの足元に膝をつく。脚を抱き、ブーツのピンバックルを外して脱がそうとする。

「エリス、いい」
「でも……」
「いい」
エリス、ブーツに手を掛けたままカイムの顔を見上げる。
かぶりを振るカイム。エリス、不服そうな表情。

「どこの王様だ、俺は。どこの召使だ。お前は」
「……いいじゃない。亭主関白で」
「よくはない。亭主でもない」
「時間の問題」
エリス、首を傾げながら立ち上がる。再び、カイムの髪をわしわしと拭いていく。
十指を立てて頭皮を揉みこむ。タオルで頭を小龍包よろしく包む。手刀をつくり上からとんとん叩く。
背もたれに身を預け放心するカイム。口があんぐり開いている。上体が揺れる。
エリス、カイムの前額につく泥を慎重に拭き取る。そのまま眉毛をぐりぐりなぞっていく。エリス、楽しそう。

「カイム、お腹減ってない?いつでも食べられる」
「頼めるか」
「待ってて。すぐ用意する」
エリス、タオルを八つ折りにしてカイムの膝に置く。ぱたぱたとサンダルを鳴らし、調理場へ。
手際よく焜炉に火をつけ、片手鍋をかける。
調理台に被せてあった布巾を除けると、大皿に盛られたサラダ、鶏皮の炙り、バットにはハーブの振られた鶏モモ肉が寝かせてある。
エリス、サラダと炙りの皿をテーブルまで運び、早足で焜炉の前へ戻る。中腰で火の具合をじっと窺っている。
カイム、その後姿を眺めている。人心地ついた様子。鶏皮を摘んでは酒を舐める。
と、顔をしかめるカイム。

* * *

『好きな殿方に、一度抱かれてみたいのです』

『普通の少女のような恋愛をしてみたいのです』

『抱いていただけますか?カイム様……』

『まだこれで……終わりではありませんよね?』

『カイム……っ、様……っ、ひやっ、ふあぁ……っ』

* * *

カイム、そわそわする。
頬の内側を舌で突付き、下唇を舐め、頭を抱えてはいやいや大丈夫だという顔で起き上がる。
何かに気付いたよう息を呑む。
そっと立ち上がる。忍び足でベッドの方へ歩いていく。途中後ろを振り向いてはエリスの様子を窺う。エリス、料理に集中している。
カイム、外套を脱ぎ、ベッドの下に放り込む。振り返る。
エリスが見ている。

「…………」
「…………」
沈黙。

「カイム。今、何か下にやった?」
「いや……」
「外套よね」
カイム、固まる。

「カイムの外套、壁に掛けてある。今日着ていかなかった」
「つまりな……」
「じゃあそれは、誰の外套?」
エリス、大股で一歩カイムに近寄る。
カイム、一歩下がる。

「なんだか丈が短いみたいだった。女物みたいに見えた」
「知人の家に寄ってな。女みたいに小柄な奴なんだが気は優しくて手品が上手い。新作を考えついたって言うんで冷やかしに行ったんだ。なぜなら、奴は手品が上手いからだ。ところがその前に見せたいものがあると言う。そこでだ、ここが面白いところだからよく聞いておけ」
「外套、見せて」
「見たいなら見ればいい」
「カイム」
「小柄な奴だから合う服がなかなか見つからなくてな、ある時からもう吹っ切れて」
「カイム」
「ある時から……」
「ちょっとそこ。退いてくれる」
「…………」


○回想・特別被災地区・カイム宅


カイム、椅子に座っている。
その目の前で、外套を淡々と切り裂いているエリス。


○回想・特別被災地区・カイム宅


カイム、椅子に座っている。
上半身が裸に剥かれている。露わになったキスマーク。
その足元に跪き、股座に顔を埋めているエリス。カイムの性器に舌を這わせている。
筋に沿って繰り返しキスをする。陰嚢を吸い、へその窪みを舌先でなぞり、太腿の付け根に頬擦りする。尿道口をねぶる。穴に舌を割り込ませ中身を吸い上げる。陰茎を口に含み唇で皮を剥いていく。
性器、ぴくりともしない。
舌を押しつけ汗を舐め取っていく。唾液で陰毛を湿らせては啜りあげる。垂れてきた髪を耳にかける。カイムの内腿を撫でる。尻に腕を回す。
エリス、カイムのものを丁寧に咥える。ゆっくり呑み込んでいく。先端を喉まで導き、唇で根元を扱く。喉の奥で優しく絞めては放す。口内で舌が蠢く。
性器、ぴくりともしない。

「…………」
エリス、動きを止める。
俯く。長い髪が表情を隠す。

「……ょく」
両手は固く握られ真っ白になっている。爪が皮膚に食い込んでそこだけ赤い。
拳が震え始める。

「……屈辱」
エリス、立ち上がる。
肩をいからせ震えている。

「ねえ。ねえ!」
エリス、烈しく足音を立て部屋を歩き回る。呼吸が荒い。壁を蹴る。蹴る。何かを喋ろうとする。下顎が引き攣っている。

「どうなの」
「何をしたの」
「何て女よ?」
「どこで何て女と何時間一緒にいたの?何度会ってるの?何回挿れたの?キスは何回した?何て会話したの?ねえ何でそういうことするの?教えて。理解できるように教えて。目を見て。考えて。私、カイムにとって、なんなのかな。ねぇ?カイムにとって、私はなんなの?一緒に暮らしてる他人?単なる、知り合い?ねぇ、教えてよ、カイムにとって、私はなんなの?自分が少し前、何を言ったか覚えてる?忘れちゃった?私だけなの?一言一句覚えてるのは私だけ?変わらないようにって思ってるのは私だけ?カイムの気持ちは変わってるの?私のこと少しでも見ていたことがある?教えてよ。興味が無いならそう言って。どうしてかな。なんで便所女のところになんて行くのかな。解らない。全然理解できない。ねえ?知ってるはず。私何でもカイムの言うこときくよ。したいことあるなら私にすればいいじゃない。そうでしょう?キスしたの?何回したの?何を言ったの?今日で何度目なの。ねえカイム言ったじゃない。私と一緒に生きていくって。もう忘れちゃったの?いつから。私じゃ駄目なの?スベタとするのが気持ちいいの?」
「屑女」
「淫婦」
「雌豚。回虫。色気違い」
「安心して」
「カイム。心配しなくていいよ。私が守ってあげる」
「カイムは悪くない。全然悪くない。私は解ってる。理解してるよ。カイム優しいから。取り乱してごめんなさい。気持ち悪い女に騙されてるだけ。利用されてるの。娼婦ね?カイムに身請けしてもらおうなんて思ってるの?ゴキブリ女。馬鹿じゃない?仕事。貴女のためにカイムは優しくしてるわけじゃない」
「淫売」
「肉豚」
「便所女、白痴、低脳、淫乱浮浪、精液便器、露出狂、孕み豚、汚物顔、脂肪の塊、精薄、大淫婦、汚穢屋、疾病持ち、剛毛、糞尿排泄器、垢猿、ハメ穴、悪臭中心、人工肛門、低劣淫乱肉達磨、ヒトモドキ、社会のダニ、薄汚いタダマン便器がカイムに手を出そうなんて思い上がりもいいとこ」
「カイム、教えて」
「少しだけでいいの」
「どこの売女に出してきたの?名前を言いなさいどこの糞女よ」
「忘れよう?ね?盛りのついた痴呆女のことなんて考えちゃだめ。私はここにいるよ」
エリス、優しい声。

「カイム」
「カイム、私のこと見て」
「カイム、服濡れちゃってる」
「カイム、ひげが伸びてる」
「カイム、温めてあげる」
「カイム、おしっこしたくない?」
「カイム、お腹減ってない?」
「カイム、お金は足りてる?」
「カイム、お酒のおかわりいる?」
「カイム、気に入らないことはある?」
「カイム、気に障ることあったらなんでも教えて?」
「カイム、明日は家にいてくれる?」
「カイム、口開けて?」
「カイム、ああんってして?」
「カイム、やっぱり怒ってる?」
「カイム、イライラしてる?」
「カイム、機嫌直して?」
「カイム、私のことすこし殴ってみる?」
「カイム、私の顔靴で踏んで?二度と逆らうなって言って?」
「カイム、すっきりするかも。どうかな」
「カイム、私のお腹けっこうやわらかいよ?」
「カイム、なにか刺してみる?」
「カイム、たのしいかも」
「カイム、怒らないで。おねがい。何か喋って」
「カイム、その顔もかっこいい」
「カイム、話しかけてもいい?」
「カイム、手。握っていい?嫌だったらごめんなさい」
「カイム、私ここにいていい?邪魔じゃない?鬱陶しい?気持ち悪い?」
「カイム、こっち見て」
「カイム、私のこと好き?」
エリス、訊きながらカイムの頭を抱く。
カイム、ああ、と声を漏らす。

「面倒くさそうな顔してる」
カイムの頬に掌を添え、エリス。

「カイム、元気ないよ?」
「カイム、今なにを考えてるの?」
エリス、カイムの唇をゆっくり舐める。
カイム、頭を仰向けにして口付けを受けている。喉が繰り返し鳴る。
エリス、カイムの顎を伝い垂れていく唾液をタオルで優しく拭う。

「カイム」
「カイム、忘れよう?」
「幸せ」
エリス、カイムの頸に手を掛け、つぶやくように。

「ずっとこうしていたい」
優しい声。
カイム、立ち上がる。

「どこに行くの」
「ここに居て」
「カイム」
「女のとこ行くんだ」
「ここに居て。屑女の所に行くんでしょ?その女でしょ?誰?何て名前なの?ねえ名前を教えて……?」
エリス、優しい声。

…………。


○回想・特別被災地区・雨


○ヴィノレタ・二階・メルトの部屋(回想戻り)


「……なるほど?」
火影に黄色く照らされるカイムの背中。白いタオル。
メルトは腕がやや疲れてきたのを感じ、手を止める。

「なるほど。つまり、いわゆる、身から出た錆よね」
「……確かに、褒められるようなことをしたとは思っていないが」
「あ、そこはわかってるんだ」
「でも限度ってものがあるだろう」
「エリスに限度を要求」
「普通のことだ」
「普通ね?」
「悪いか」
「さあ」
「一々暴れてどうする。外套切り裂いて何になるんだ。それこそこっちを信用してないってことだろう」
「信頼って積み上げていくものよ?」
「俺のせいだって言いたいのか?だからな。確かに、どちらかといえばまあ、悪いことは悪いとも言えるが、それにも限度ってものがある」
「じゃあカイムはどういうのがお望みなわけ」
「だからな。だからだ。少なくとも、事情を落ち着いて聞いてだ、なるほど。薬を盛られた。仕方なかった。クローディア、奴にもいろいろある。仕方なかった。そういうことなら仕方ないと。おい。鼻で笑ったな」
「そんな愛情はありません」
「あるかもしれないだろう」
「旦那様、行ってらっしゃいませ、あんまり浮気したら駄目ですよ、たまにはお帰りくださいね?エリスがそんなこと言う日が来ると思う?目を覚まして、お願い」
「覚ましてる」
「いい?カイム。エリスのこと大事にしてあげなきゃ駄目よ」
「説教は止せ」
「どうせあいつは何でも俺の言うこときくだろう、って思ってるでしょう」
「全然言うこと聞かないだろうが、あいつ」
「確かにエリスはそういうとこあるけど、だからって何してもいいわけじゃないの。一人の人間として尊重してあげないと」
「話を聞け、話を」
「浮気したなら謝りなさいって話よ」
「謝る必要は無い。俺には怒ってないと言ってる」
「エリスの気持ちも汲んであげたら?」
「あいつの要求通りにしてたら去勢されたも同然だろうが」
「口答えしない」
ほの温かいタオルをカイムの顔に押し付ける。もごもご言っている。ちょっと楽しい。

「いい?エリスのこと大事にしてあげなきゃ、あれよ」
メルトはそこで少し溜める。

「あれよ。なんだっけ?」
「知るか」
「罰を下すわよ」
「お前は神か」
「間違えた。罰が当たるわよ」
カイムは鼻で笑う。

「そりゃ結構。天使様は見ているものな。こんな掃溜めまで首を突っ込んでくれるとは、暇な聖女も居たもんだ」
「あ、呼び捨て。罰が当たります」
「崩落でも起こるか?」
「不謹慎」
「確かに」
「あのねえ……」
「メルト、腹が減った。下に何か残ってないか?」
カイムは半笑いでそう告げると、勢いをつけ立ち上がった。
その時のことだった。
板張りの廊下を打つ靴の音が部屋まで届いた。
杉の無垢板は鈍い響きをたて軋んだ。その上にカツカツと軽い足音が乗った。滞留していた空気を切り裂きそれは迷い無く接近して来るようだった。
寸分違わぬペースで刻まれた足音は二人の部屋の前でぴたりと止んだ。カイムは尋ねるようにメルトの方を向いた。
扉が四度ノックされる。続いて声。

『メルト?』
扉越しにエリスの気だるそうな声が届く。

『結局寝たの?それなら一言くらい断って』
メルトは言われて眠気を思い出す。ベッドに後ろ手を付き背筋を伸ばす。あはあ、と息が漏れる。

「そろそろ寝ようかな?」
『起きてた』
「ちょうど寝るところ」
『考えたんだけど。貴女顔が利くでしょう。昨日のカイムの足取りって調べられない』
「足取り?カイムの?そんなこと私に頼まれても」
『調べられない?』
「それはちょっと、難しいかなぁ。ジークにでも頼んだら?」
『最近見ないし。見たい顔でもないし』
「ふうん?」
『でなに、寝ないなら下で付き合ってよ』
「寝ます。エリス、好きなだけ居ていいから帰るとき暖炉の火だけ、ちゃんとしていってね?」
『分かってる』
「よろしくね」
『しつこい』
「……あ〜、そうだ」
『なに』
「エリスにちょっと見せたいものがあってね」
『はあ』
「ちょっと待っててくれる?今着替えてるから」
『面倒』
『メルトさぁん、音がしましたけど、なにかあったんですかぁ?』
ティアの寝ぼけた声が重なる。起こしてしまったようだ。ぺたぺたと内履きをひきずる音がする。

『メルトさぁん?』
『メルトじゃない』
『はれ?じゃあ、どちらさまですかぁ……?』
『二つか三つ付いてるでしょう。眼玉開けて喋りなさい小動物』
『え、エリスさんですかっ!?』
『うるさい。こっちはストレス溜まってるの。その口縫い付けて欲しいの』
『ひっ、そっ、こんっ、どっ、いらっしゃいませ……?』
『客じゃない』
『こ、こんばんわ……』
『目を見て喋る』
『エリスさん、こんばんは』
『その能天気な声癪に障る』
『ひっ……』
扉越しに二人の声が届く。メルトは部屋を見回す。人間が一人消えている。クロゼットの隙間から顔だけ出したカイムと目が合う。

「なにやってるの、カイム」
「……おい。どういうことだ。メルト。どういうことなんだ」
カイムは器用に小声で怒鳴る。メルトは噴き出しそうになるがこらえる。

「とりあえず服着たら?その中、ぐしゃぐしゃにしないでね?」
「エリスは帰っただろう。帰ったんだろう」
「そこにいるし、帰ってないんじゃない?」
「おい」
「おいと言われても」
「なんで帰ってないんだ」
「さあ?」
「知ってるだろう。絶対知ってるだろう」
「そうかもね」
「エリスの声がする。それはつまりエリスがそこにいるということだ。そこにいるのはエリスということだ」
「カイム、落ち着いて」
「待てよ。なんで声がするんだ。帰ってないからだ。なんで帰ってないんだ。ここにいるからだ。なんでここにいるんだ。声がするからだ。なんで声がするんだ」
「カイム、現実を見て」
「……後で痛い目みるぞ」
「凄まれても。自業自得じゃない」
「お前なあ、あああ……」
「そうそう、後悔って大事よ」
「待て。エリスに見せたいものってなんだ。エリスに見せたいものって」
「わかるでしょ」
「分からない。全然分からない」
「言ったでしょう。エリスの味方なのよ私、どっちかというと」
「勘弁してくれ……」
ぱたん、と音をたてクロゼットが閉まる。覚えてろよ、と中から怨嗟の声が聞こえる。メルトはにやにやする。

『メルトさん、エリスさんがお腹すいたそうなのでなにか作ろうと思うんですけど、火使ってもいいですか?』
『メルト、さっきの、カイムの話。続きあるんだけど』
『はなし、お話……。それってわたしも混ぜてもらえるんですか!』
『もらえない』
『カイムさんの話なんですよね?わたしも混ぜて欲しいです』
『だからもらえない』
『なんでですかっ!』
『うるさい』
『すいません。なんでですか……』
『小動物にはまだ早い』
『まだ……』
『さっさと巣に戻る』
『まだってつまり、年齢的な、おと、大人な話とゆうことでしょうか!わ、わたしも聞きたいです』
『成獣になったら教えてあげる』
『依頼?あし取り?とか言ってました?ス、スパイ的ななにかでしょうか?なんなんですか?気になりますよぉ!』
『獣臭いから寄って来ないで』
『えー、駄目ですかぁ、メルトさぁん?』
『ねえメルト。着替えるなら早くして』
メルトは立ち上がる。
クロゼットの扉を引く。内側で必死に押さえているらしい。がたがた音が鳴る。

「カイム、そろそろ諦めたら?」
声が半笑いになってしまった。中から舌打ちが返って来る。

『メルト、まだ?』
「ちょっと待ってね。クロゼットが開かなくて」
『なにそれ』
ドアノブががしゃりと鳴った。エリスが手を掛けたらしい。
もう一度クロゼットの扉を引く。頑として開かない。これでやり過ごせるとはさすがに思っていないだろう。カイム、とメルトは優しくクロゼットに話しかける。

「十秒以内に出てきたら味方してあげる」
「嘘をつけ」
「出てきたら?大丈夫、窓から逃げればいいじゃない」
「この部屋に窓は無い」
「よく見てるわね」
「悪魔め」
「今すぐ出てきたら一緒に話し合ってあげる。出てこなかったらエリス部屋に入れて、私は出てく」
「おい」
「どっちがいい?」
「いてくれ」
「即答」
「……いてくれ」
「じゃあ出てきなさい。子供じゃないんだから」
『メルトさん?』
『メルト、まだ?』
エリスの声が聞こえた。
それに反応したのかクロゼットがややガタついた。やれやれ、とメルトは呟いた。ちっとも成長していない。
自立の道を歩んでいる?
エリス先生?凄腕の暗殺者?過去を忘れず?手を繋ぎ生きていく?疑わしいところだ。
まるで成長していない。出会った頃からろくに変わった気配がない。メルトにはこの二人は昔から世話が焼けて、今でも本当に世話が焼けた。なにせ喧嘩の仲直りひとつ出来ないのだから。自分がいなかったらどうなってしまうのか、側にいると不安になって仕方が無い。どちらもまだ自分を主語にしてだけ物事を考え、相手を削り合っている。互いに無理をしあっている。相性が悪いんじゃないかとすら思う。カイムも、エリスもお互いもっとしっくりくる相手が他にいるんじゃないかと思う。カイムには芯のあるきっちりした女性が合うだろうし、エリスももっと存在を包み込んでくれるような男性の方が安心できるに決まっている。いまいちお互いはまっていない。この先どうなるかだって分からない。
そしてそれは、メルトには実に、悪くなかった。
見ていて飽きることがなかった。面倒ごとも嫌いじゃなかった。邪魔をしたり。手伝ってみたり。あれこれ口を挟むと鬱陶しそうにエリスもカイムも顔をしかめる。そのくせ揉めたらヴィノレタに来てなんとかしろとメルトに迫る。
今日もまた明るくなるまで悶着は続くに違いない。睡眠時間が無いのは辛い。付き合わされる身にもなってほしい。文句を並べる自分の頬が弛んでいることくらいは自覚している。外面は立派になった二人。でも”先生”なんて呼ばれて内心浮かれていたり、女の誘いにほいほい乗ってしまったり実際のところはどちらもテキトウ極まりない。放っておくなんて怖くて無理で、手がかかるくせに言うこと聞かなくて、目が離せなくて厄介で心の休まる暇もない、今という時間がメルトには強く輝いて見えた。手を繋いだ二人に置いていかれもそれほどしてないような気がした。自分はそこそこ必要とされている。明日もそうあるようにと願った。手放したくない。口では言わない。

「十秒経つわよ。はち、なな、ろく、ごー……」
ゆっくりカウントダウンを始める。
いつものことだ。この後の展開はたいがい予想がつく。二人とも疲れるに違いない。下で温かいものでも作って待っていよう。メルトは再び腕まくりする。

「よんー、さーん……」
クロゼットの扉が開いた。カイムが姿を現した。下着姿だった。メルトは服を差し出した。カイムは黙ってそれを着た。
メルトはノブに手を掛けた。扉をゆっくり開いていった。エリスの顔が現れた。五分ほど扉が開いた時その目が見開かれるのが分かった。カイムはベッドに座っていた。床だけ見つめてじっとしていた。エリスがあっと声をあげた。ティアがゆっくり小首をかしげた。

「カイムさんも来てたんですかぁ?あれ?」
「それじゃ、ご両人。積もる話もあるだろうし、この部屋好きに使っていいわよ」
「メルト。待て。話が違う」
「下で温かいもの作って待ってるから。一段落ついたら降りてきてね。あともう日付変わってるから暴れるときは静かにね」
「おい。話が違うぞ。話、話が……」
自業自得、とカイムにウインクする。
棒立ちのエリスの肩を叩く。一仕事終えた気分で息をつく。聖女様。特別被災地区は今日も平和です。
ティアと目が合い笑みを交わした。眠気をちっとも覚えなかった。揚々として扉をくぐった。夜食のメニューを考えた。
カイムは相当絞られるだろう。精のつくものがいいかもしれない。そもそも何が残っていただろう。卵があった。ベーコンがあった。丸パンも結構余っていたからこれはもう挟むしかない。角切りにすれば噛んで楽しい。スープも添えれば言うことなしだ。折角だから新しいのを焼いてやろう。古いものはパン粉にしよう。香草パン粉焼きを明後日くらいにやることにしよう。メルトはしたりと手を打った。
そうして歩いて部屋を出た。
軽く鼻歌を歌って出た。
一階へ向かおうと出た、つもりだった。
そのメルトの、

「……え?」

――腕がとられていた。
だから。
実際には部屋から出ることは、出来なかった。

「貴女だったのね」
エリスは言った。
メルトは自分の腕を見た。エリスの手に掴まれていた。
どうしてか、握り締められていた。
どうしてか、爪が立っていた。

「メルトだったんだ」
「……え?」
「貴女だったの。そう。ふうん。私のこと。コケにして。腹の中では笑ってたわけ」
「うん……?」
「やたらにやけてたのも。ふざけた顔も、さんざ絡んできたのもそういうことだったわけ。遊んでたんだ。何も知らない振りして。へえ。楽しいこと考えつくものね」
「……どど、誰?私の話……?」
「なるほど。たしかに、確かにね。合点がいった。忘れてたけどメルトって元々、そういう人だった。思い出した。そう、表ではいい顔してるけど。屑女。裏でなにやってるか分かったものじゃない。メルトってそういう人間だった。カイムもそれで騙されたんだった」
「騙してなんか、騙してなんかはしてない……?」
「よかったね。メルト、笑えたでしょ。愉快だったでしょう。何も知らないような顔して。どう、満足した。気持ちよかった?人から奪って」
「へ、……ち、違うのよ。どこかで踏み違えてる、エリス、落ち着こう?いっしょに、一緒に考えよう?ねえ……?」
「カイムの身体に。薄汚い女の手が触れたなんて考えただけで吐き気がする。薄汚い女の指がカイムの身体を這ったなんて」
「お願い。エリス、エリス聞いて?」
「私が。訊きたいことのほうが多い。ねえメルト。いいかな。ちょっと話があるんだけど」
エリスは言った。

「二人で」
目の前が急に真っ白になった。
ふ、二人で?合点がいった?メルトだったんだ?裏?おもて……?
カイムの声が聞こえた。

(……そういうことにしといてくれ)
(……どういうことよ?)
(……メルトなら大丈夫だろ)
(……大丈夫じゃないわよ?)
(……クロを見捨てる気か)
(……え?どういうこと?どういうことよ?)
(……悪いな)
(……待ちなさい、え?待ってよ?)
(……よろしくたのむ)
(……へっ?ちょっと?ちょっとぉ……?)
ティアの姿が目に入った。小さな身体が大きく見えた。
ティアなら味方をしてくれる。寝食を共にする家族なのだ。切れない絆を愛と呼ぶのだ。メルトはそう思った。

(メ、メルトさん。わたし、明日早いんでした!おやすみなさい!)
動物の感は鋭かった。
メルトは自分の腕を見た。エリスの爪が食い込んでいた。肩にも手を回されていた。部屋に戻るよう促されていた。顔を上げることはもはや出来なかった。
エリスの声が聞こえた。
カイムの去る足音が聞こえた。
ティアの部屋の扉が閉まる音も聞きとることができた。聴力は万全だ。健康でよかった。メルトは目を閉じた。健康はいいことだ。
メルトは深く息を吸った。
メルトは思った。
階下で眠る仔羊の鞍下肉のことを思った。


暗転



【サイテーション】
エロゲ/穢翼のユースティア辞書
HRsukiさんの「穢翼のユースティア」の感想
『問い詰め』(で検索)
ナボコフ『ロリータ』より一部引用