オーガスト 穢翼のユースティア エリスss『仔羊のショートロイン網脂包み焼き』(2/3)

穢翼のユースティア エリスss『仔羊のショートロイン網脂包み焼き』
説明:エリスルート、その後。
二章の終わりから一月ほど経った頃の特別被災地区。メルト、魂の叫び。
『仔羊のショートロイン網脂包み焼き』(1/3)のつづき
『穢翼のユースティア』は2011年4月28日発売予定です。



○ヴィノレタ・店内


三十秒後。
メルトは鍋底の錆びと本格的な戦いを始めていた。
エリスはテーブルに積んだ硬貨を上機嫌で銀貨と銅貨の山に分けている。勘定には十分足りているだろう。医者として今の彼女は結構稼いでいる。
――私とカイムは家族だから。
その言葉をしみじみと、右手のタワシを動かしながら、メルトは味わっていた。
現在――腐蝕金鎖と風錆の抗争が終結して一月ほどが経過している。
特別被災地区は以前の姿を取り戻しつつある。残党狩りこそまだ続いているが市場や娼館街には目に見えて活気が戻って来ている。
全てが元に戻ったわけではない。地区全体を巻き込んだ抗争は良かれ悪しかれ多くのものをもたらし事件は住民一人一人の胸に何事かを刻み、その総体として特別被災地区は変わろうとしている。
メルトの周囲にも様々な動きがあった。ジークはあちこち飛び回っているらしく顔をしばらく見ていない。オズは妻に逃げられた。知り合いの娼婦は何人か身請けされていった。リサは一人部屋を手に入れた。ティアはコルク栓横にして半個分背が伸びた。アイリスに初潮が来た。鶏肉の値段が上がった。中地区にも市場が開いた。街の整備計画が噂され、地価相場が吊り上がり、発色のよい布地が新たに出回り、広場には先代の像が建った。何もかもが以前とは少し違う。変わらないのはメルトともう一人、カイムだけだ。カイムは今も見回りと称し、通りをうろついている。
街のごろつき、或いはエリスのヒモ。カイムはエリスと生きていくことにした。メルトはそう受け取っている。

「私とカイムは家族だから。財布はひとつ。家族だから。幾らでも払ってあげる。ねえ、店員さん?ふふん」
目の前で家族家族とうるさい友人がメルトには眩しく見えた。彼女も変わっていこうとしている。

「で。幾ら」
「ちょっと待ってってば」
エリスは顔見知りの娼婦以外も診るようになった。
抗争で負ったカイムの怪我の治療が済むとエリスが始めたことは薬の買い付けと娼婦の回診だった。腐食金鎖に金を借り上層から医学書を取り寄せた。家の前には医者と張り紙を出した。
汚れた白衣を脱がなくなった。黒いかばんは道具で膨れた。日中は家にいるか街をまわっていた。外に出る時は自分の居場所を扉に書いて出た。
仕事が終わると下層に登ることが増えた。下層には本物の医者がいる。メルトが会ったこともない人と会い、日が変わる頃本の余白を書き込みで埋めて帰ってきた。
仕事、家事、就寝。生活にルーチンが生まれ目の前にやるべきことを見つけた彼女の様子は以前とはすこし違っていた。ヴィノレタにも夜しか来なくなった。
娼館の依頼で三大病の検診も始めているらしい。救急治療からその先へ手を広げていきたいのだろう。家を改修して診療所を開くのだと言う。それについてはメルトも大いに賛成している。
彼女がカイムに関係しない行動を進んでするなどはじめてのことだ。自分が他人に必要とされているという事実に、エリスは驚きながらも向き合おうとしているのかもしれない。
医師は慢性的に不足している。呼んでも来ない例はザラで、来てもままごとのような診察をして帰っていく。高い丸薬、大抵の場合固めた小麦粉、を売り付けられることもある。そんな中詐欺無し、ゆすり無しのあるだけ払いで通る医者の存在は自然と人の噂にのぼる。
道を行けばあちこちから挨拶の声を掛けられる。市場を歩いていれば患者が寄って来て”先生”に食べ物を押し付けていく。受けるエリスの表情には迷惑以外の色も浮かんでいるように見える。
彼女は自立への道を歩み始めたのかもしれない。カイムさんとこのあの巨乳の、ではなくエリス先生へ。寸胴のふちをタワシで擦りつつ、メルトは思う。エリスの世間は拡がっていくようだ。
一番の変化は彼女の顔に表れている。
エリスは時折患者に笑顔を見せるようになった。
彼女の笑い顔などかつてはカイムの側にいる時にしか見られないものだった。それが今では快方に向かった患者に微笑みかけることもある。怖がらせないよう明るい表情で病状治療の説明をする。怪我人が取り乱していれば背中を撫でて落ち着かせる。不機嫌そうな仕草はなりを潜めた。穏やかな目つきには確かに彼女の心遣いがにじんでいた。
変化の理由を尋ねるとエリスは否定する。無意識的なものなのだろう。あるいは認めるのが恥ずかしいのかもしれない。
いずれにせよ、メルトを驚かせるには十分な事件だった。
エリス先生、と呼ぶのもあながち冗談ではない。まるで別人。見ているとどこか置いていかれてしまったような不安を覚える。
仕事が増えたことに起因してだろう。昔のようにカイムに付きまとう姿も見なくなった。
カイムの後を追けないエリス?愚痴も言わずに仕事するエリス?自分の頭は変化に追いつけていないのだろう。
空になった水瓶を床に下ろす。
エリスは椅子に掛け紅茶のマグを退屈そうに揺らしている。その姿だけは昔と変わらない。メルトは台拭きを広げ、思う。

「最近どうなの?お仕事のほう」
これまで彼女はある意味で壊れた自分を演じていた。
感情を知らない。周囲に関心を持てない。怪我したところで知ったことじゃない。カイムじゃないなら帰って。二度と来ないで。
カイム以外はどうだっていい。自分は人形だとうそぶいていた。傍から見ているとその様子はだだをこねる幼児に似ていた。
人形は愛することが出来ないし、愛されていることも分からない。実感が無く不安だけが残る。彼女は言うだろう。
カイムは特別な繋がりだ。カイムは自分を買ってくれた。それは愛ではないらしかったが、その事実は自分の命に意味を与えてくれた。自分には金を払って買ってくれる相手がいる。他ではない自分を買い求めた主人がいる。こうした縋ることのできる事実を与えてくれた。不安な時そのことを思い出すと眠ることができた。
エリスがカイムに固執する理由は言葉にするとこんなところだ。メルトはそう解釈している。
そこに幾許かの真実はあろう。
自分は人形である。カイムに命を与えられた人形である。
しかしどこか設定じみて、メルトの目にはそう演じているようにしか見えなかった。生まれてきた意味?自分にはちょっと難しい。メルトは台拭きを絞る。
近頃エリスはよく喋る。忙しい、とことあるごとに言っていく。
最近忙しい。疲れた。不思議なことに不安で眠れないことは無くなった。身体がくたくただからかもしれない。明日も朝から西地区まで往診に行かなければならない。鬱陶しい。実に面倒くさい。薬がもったいない。あいつら医者医者うるさい。……でも、夜はよく眠れるんだ。
――なるほど。自分も歳をとるわけだ。
メルトは調理台を拭き始める。それから懐かしく思い出す。
『は?』と短く切り返すエリスの表情を思い出す。『女?それ女なの?』
かつてのエリスといえばこれだった。彼女は溢れる占有欲を隠そうともせず、カイムがこれまで関係した女性一人一人に嫉妬して回ったものだ。
カイムの過去に対してエリスは実に貪欲な好奇心を示した。女の容姿、経歴、所在、家族構成、思想、病歴、馴れ初めから別れまでを仔細にわたって聞き出した。カイムにその愛人を侮辱させ、踏みにじらせ、完全に裏切って抹殺させ、そうしてカイムの過去を消滅させるために、まずそれらの女を残らず二人の前に蘇らせようとした。
『で?それで?いつまで?いつから?切れたの?切れたでしょ?顔は?身体?……なによくだらない』
多くは酔いの回ったジーク、メルトから語られた。とても旨い酒のつまみとなるのだ。
こうしたエリスの姿はもう見られないかもしれない。
例えば夕刻のヴィノレタ。女給がカイムに相談しているのを見つけたエリス。
微動だにせず聞き耳を立てているエリス。カイムに見える角度でむっとした表情を作るエリス。強引に二人の間に割って入るエリス。すれ違いざま女給の耳元で舌打ちするエリス。同時に靴を踏みつけるエリス。
或いはカイムの隣に音も無く座るエリス。会話の邪魔はせずしかしよく見てみると彼の手をたぐりテーブルの下で握りしめている。それでふふんと勝ち誇って女給を見下した後、カイムに振り払われ心外だという顔をする。
こういったレクリエーションはこの先減っていくのだろう。メルトの目に映るエリスは既に確固たる自信を手に入れている。
ストーキング、待ち伏せ、監視、監視していると告げる行為、交際の要求、体液の塗布、衣服等私物の窃取、住居侵入並びに自慰行為の陳列、飲食物への薬品添加、脅迫、自殺の仄めかし、それによる特定行為の強制――。
これまでの縄張り行動がカイムに捨てられるかもしれないという不安に端を発していたとするならば、エリスの自立に従って、それらは次第に目立たなくなっていくだろう。
カイムとのより常識的な男女交際に近づいていくだろう。それを二人とも望んでいるのだろう。メルトはそう思っていた。

「……応援してるぞ」
仕事を終えた親鳥のような心境でいた。成長したエリスを、二人の幸せを見守っていたかった。
今まで散々ストレス解消に使われていたことも、受けた舌打ちも、仕打ちも、意味があったのだと誇らしくすらあった。
エリスは過去の自分と訣別しようとしている。歪んだ関係は続かない。執着も、嫉妬も、服従も、愛情と同義ではない。自分の人生に対し責任を持つこと。自立すること。主体性を持つこと。カイムと自分とは別人であること。だからこそ支えあっていけること。そうして、カイムに依存するだけの関係をエリスは終わらせようとしている。メルトは目を細める。きっとうまくいく。
応援してるぞ。そう思っていた。

「そうだ」
けれど今日も、何かとっておきのお菓子を食べる時の顔をしてエリスが身を乗り出してきた。それは短い夢の覚める合図だった。メルトはうっと身構えた。
カウンターテーブルを拭くメルトの耳に、彼女は親しげに囁きかけてきた。

「ねえ、メルトは知らないだろうけど。カイムってね」
「今ちょっと……」
メルトは抵抗を試みる。

「今ちょっと忙しいのよ」
「うるさい。ねえ、カイムってね――」
エリスは語った。
毎晩いかにカイムが激しいか。自分を求めているか。どんな顔を見せるか。一心に腰を打ちつけ苦しげに顔を歪め息を吐くか。
カイムの性器の太さ、逞しさ、味、匂い、しなり、手触り。目が覚めたらカイムの腕の中にいる気持ち。カイムの体臭に包まれて眠る気持ち。
カイムの膝に座る権利、ほお擦りする権利、匂いをかぐ権利、身体を舐める権利、額から爪先まで乱暴に弄られる権利を自分は持っていること。相手の下唇を先に咥えたほうが勝ち、なんて遊びで一瞬で過ぎる休日の午後。
カイムの好みに仕込まれていく充足感。カイムを独占する勝利感。カイムを慌てさせる満足感。カイムに身体を使われる誇らしさ。
メルトなどは、とエリスは言う。
メルトなどはカイムにとって捨てた女で、ちょっとむらむらしたから手を出した女で、若気のいたりで、消費財で、的があったから撃ってみただけで、手ごろな穴で、勘違い女で、記憶の中でだけ息をしていて、生の肌には勝てるべくもない、妄想の残滓、性欲の煮こごりで、夢から醒めたとき、年々美化されゆく感傷から醒めたとき、カイムが貴女に与える名前が、なんだか知ってる?『飯屋のおばちゃん』わかる?おわかり?

「昨日もね、裸の私にエプロンを着せて、胸に挟ませて」
――カイムったら、すごい喜んでた。やっぱりあれかな。満足感あるのかな。メルトより私のほうが大きいから。メルトより。
――メルトってカイムに口でしたことある?ないでしょう。大事なところを噛まれるかもしれないから。信頼されてない人は任せてもらえない。
――私が口で掃除するとカイムすごい嬉しそう。
――やり方教えてあげようか。
――カイムに耳舐められたことないでしょ。
――カイムのおへそは少し苦いの。
――カイムに好きって言われたことある?
――愛してるは?
――離さないは?
――でも貴女、カイムの所有物じゃないでしょう。くだらない。
――じゃあ、あんまり薄着するなは?
――ないんだ。あんまり他の男に肌を見せるなって。お前は俺のものだって言われたことないんだ。
――私は毎日言われてる。
エリスは囁くように告げる。
掠れた喉声は官能的で雌の蟷螂を思わせる。交尾の直後にオスを食べる。

「私の身体はカイムの所有物だから」
――好きに使ってくれていいのに。カイムまだちょっと遠慮してる。
――私のこころはカイムの所有物だから。
――なんでも命令してくれていいのに。カイムまだちょっと慣れてないみたい。
――メルトってカイムに命令されたことある?怖い目で「咥えろ」って言われたことある?喉の奥好き勝手に使われたことある?頭掴まれて乱暴にねじこまれたことある?知ってる?
――すごい幸せ。
微笑みに乗せ最後の台詞を言い切るとエリスは決まって流し目を送ってくる。粘つくような眼差しで言葉の効果を、メルトの反応を窺っているのだ。余韻を楽しむように頭はゆったり揺れている。鼻の穴は得意げに広がっている。口角は意地悪そうに吊り上がっている。思い出す限りいつだってそうで、今夜もやはりそれは同じだった。
応援してるぞ……。
でもなにかがおかしいぞ……。と、メルトは思い始めていた。
最近仕事が忙しいエリスはヴィノレタにも夜しか来なくなった。しかし夜には一日と欠かさずやって来るようになっていた。そうして延々絡み倒してくる。調理場の真ん前に陣取って。なんだか一日の疲れが増しているような気がする。客の質にその原因があるような気がする。
女店主は近頃、悩んでいた。

「カイムは私のことが一番好きなんだって。一番ってことはあれよね。メルトみたいな人は可哀想ね」
「ふうん?」
「今や、貴女は二番以下ってことよ。可哀想。同情してあげる」
「それはありがとう」
「どんな気持ちがするの?カイムに捨てられた時って。カイムに捨てられた人に聞きたいんだけど」
「難しい質問ね」
「懐かしい。どうしてだろう。昔はメルト、メルトってうるさいくらいだったのに。私のことなんて全然、相手にしてくれなくて。人生って不思議」
「そうね」
「やっぱり若さなのかな。自分より老いた老女なんて抱きたくないよね……」
酒類の栓が閉まっているか一本ずつ確認しながらメルトは思った。どこで間違えたのだろう。
エリスは変わっていこうとしているはずだった。自立への道を歩み始めたはずだった。
これまでの縄張り行動がカイムに捨てられるかもしれないという不安に端を発していたとするならば、エリスの自立に従って、それらは次第に目立たなくなっていくと思われた。行きつけの酒場に美貌の店主が居ようとも。それがどうした。そのはずだった。仕方のないことが多すぎる。あらゆるものが不条理に彩られている。
エリスは嬉しくて堪らないように見える。
カイムとの生活を誰かに話したくてうずうずしている。しかし誰に話して良いか分からない。そうして自分に白羽の矢が立ったわけだ。
また彼女にとってみれば自分は”ラスボス”のようなものかもしれない。今こそ倒してやろうということだろうか。小さな嫌がらせを積み重ねて。
あるいは慣れない仕事のストレスを飲み屋で発散しようとしているのかもしれない。どこのオフィスレディだ。オフィスレディってなんだ。
これ見よがしの態度にはメルトも思うところが無くはない。
だがそれもいつか買おうと思っている本格式オーブンのこと、専用窯で出来ればドーム型、パンが毎日焼けるような、欲を言えばスチーム付きで最新の脱煙装置で、いくらするのかわからない、溶岩窯というのもあるらしい、名前以外はわからない、を考えていればやり過ごすことが出来る。
明るい気持ちが胸には残っていた。まだ自信を持って言うことが出来た。
お、応援してるぞ……。
どちらかといえば。有頂天になっている目の前の友人の姿はメルトにはやはり微笑ましかった。

「よかった、私、カイムより後に産まれて」
「エリス。若さを誇るのはね、空に向かって唾を吐きかけるようなものよ。いつか自分に返って来るのよ」
「そんなの私とカイムには関係ない。だって私たち、一緒に歳をとっていくから……」
エリスは天井からぶらさがるランタンを眩しげに見つめる。

「メルト。ごめんね。私いままで貴女のこと死ねばいいと思ってた」
「知ってる」
「貴女にも責任あるけど。カイムのこと誑かしていたわけだから。でも、もう少し大らかになろうって決めた」
「すてきね」
「過去に拘っていても仕方ないし。今だから言うけど、貴女に処方した風邪薬は全部その辺の砂だった」
「それは初耳」
「ま、これも昔の話」
「そうよね」
睡眠導入剤って渡した薬、まだ残ってる?飲まないほうがいい、あれリチウムだから」
「教えてくれてありがとう」
「どういたしまして。友達だもの。気にしなくていい」
「そう」
「思えば私が医者始めた頃って信用、あんまりされてなかった。それでも患者引っ張ってきてくれたのメルトだった」
「そうだっけ」
「お金ないけどご飯食べさせてくれたし。肉だらけの犬の餌みたいなご飯。私、貴女には感謝してる。だから特別。カイムの思い出の中には居させてあげる」
「優しいのね」
「もう済んだことよ。懐かしいな、昔はメルト、メルトってうるさいくらいだったのに……」
話が二周目に突入した。相槌を打ちながらメルトはすっかり片付いた店内を見渡す。
奥の席から低くいびきの音が聞こえてくる。火酒を一人でやっていた老人が卓に突っ伏している。酔いが回ったらしい。

「メルト。聞いてるの。貴女の話をしてるのに」
「なんだったっけ?」
「だからカイムが、メルトに手を出したのは貴女がその頃ちやほやされていたから」
「そうだったわね」
「狩猟本能というやつ。スポーツみたいなもの。手に入れたらお仕舞い。そこからカイムに気に入ってもらう工夫が必要だったの。貴女みたいな人は。つまり敗因は何かというと、貴女みたいな人はね。ぱっと見だと悪くないように見えるかもしれないけど、愛っていうのは減点法じゃないわけ。メルトって何か長所あるの」
「料理は得意な方よ?」
「そう。それは、多少の魅力には映るかもしれない」
「尽くすタイプだし」
「好きじゃない女に尽くされたって鬱陶しいだけ。一応加点にしてもいいけど」
「うるさいこと言わないし」
「そういう賢しらぶった態度が鼻に付くわけ。減点。中規模減点」
「減点しちゃうんだ」
「文句ある」
「特に無いかな」
「なら黙ってて」
「それはもう。喜んで」
「メルトの良いとこって何も無いわけ」
「エリスが探してくれない?」
「思いつかない」
「もっとよく探して」
「時間の無駄」
「あら」
「……でも本当、どうして捨てられたんだろう。メルト、見た目は悪くないのに」
「へえ、褒めてくれるんだ?」
「ま、化けの皮が剥がれたのか。その掌みたいに」
メルトは流しの水を止めた。

「…………」
ギギギ、と視線を下げた。
自分の掌を見つめた。
酒場の店主だ。水仕事が当然日課となる。山ほどの食器、調理器具、弱アルカリ性の安洗剤が導く答えはただ一つ、手肌の荒れだった。ナタネ由来の美容クリームごときでは到底立ち向かえない。女の業、不可抗力と言える。
憩い、出会い、陽気な笑い声。ヴィノレタは今やメルトの人生そのものとなっている。けれども。メルトにはひとつデリケートな話題が存在する。

「女って消耗していくものね……」
エリスはカップを持ち上げ、添えた白魚のような指をゆっくり波打たせて見せた。
彼女は嬉しくて堪らないのだろう。
子供が河原で見つけたすべすべの石を会う人全てに突き出すような、初めてヒールのある靴を手に入れた少女が街をはしから闊歩するような、瑞々しい無邪気さがそこにはあった。見ている人を幸せにさせる無邪気さだ。さっきまでの不機嫌もどこへやら――これも悪くない。
有頂天になっている目の前の友人の姿はメルトには本当に微笑ましかった。
この笑顔を守るためなら、メルトは思う。大抵のことを我慢できる。今日だって、

「ね。そういえば」
ひどい不機嫌で店に入ってきた態度の悪い彼女を全力を挙げなだめ、すかした。にやけた顔が気持ち悪いとなじるのはいいだろう。ナメクジ顔も良しとしよう。歳のことだって笑って流そう。そうしてついには機嫌を直すことに成功した。そう喜んでいたら直しすぎていた。誤算ではあったが、まあ機嫌が直った途端調子に乗るのもかわいらしくていい。砂を飲まされていたことも許容範囲だ。今週したセックスの体位も報告したいなら聞いてあげましょう。
で も 手 の ひ ら は 関 係 な い で し ょ う ?
何事にも例外は存在する。大抵のことは我慢出来ようと例外は確かに存在する。化けの皮?
女って消耗していくものね?家事とは無縁なあなたが。その傷の無い指はなに?メルトは自分の掌を見つめる。皮膚が固くなるのも乾いて割れるのも?指紋が日に日に薄くなっていくのも?軽くぶつけただけで内出血するまで弱った真皮も。痒くて夜目が覚めるのも。こわばり動こうとしない関節も。靱帯性腱鞘炎で膨れた右の薬指も。人前で反射的に手を隠してしまう自分も。この先一生付き合うことになる。なるほど。ホントに消耗してるね?ふふ。面白いね、面白い?ねえそれ本当に面白い?
親指、中指の先から始まった皮膚の硬化は今や手の腹を残し掌全体に及び、逆巻くような痒みから親指の付け根の皮を定期的にナイフで削がなければ眠れず、しかし削いだら水は沁み血はにじみ刺すように痛み奥歯を噛んで堪えまた今日が過ぎ、木綿の手袋がいいと聞けば即日買いに行き、ナッツオイルがいいと聞けばダースで購入し、しかし噂を集めるときにはまるで興味ない自分を装い、その度内臓が浮くような不安と情けなさを感じそれすらまた奥歯を噛みやり過ごし、直接寄りかかれるような相手は見当たらず、周囲に求められるメルト・ログティエはいつも陽気で都合のいい手の届かない無欠の女で、期待に応えようと気持ちを奮い立たせ、それを自分のプライドとして、ギリギリで立っている自分に、言うに事欠いて、『ま、化けの皮が剥がれたのか。その掌みたいに』……?
顔からさあっと表情が引いていくのがわかる。口の中で鉄の味がする。
開いた手は気付けば拳に変わっていた。そうして小刻みに震えていた。メルトの心は荒れていたのだ。掌と同じくらい荒れていた。
そして、今日の彼女は剣を持っていた。
エリスの肩を叩くとメルトは思い出したように言った。

「なんで待ってるの?ここで」
エリスはすぐに固まった。

「カイム、帰ってくるんでしょ。待つんだったら家でいいじゃない」
「待ってない」
「待ってるじゃない」
「ハ?待ってない。ただの時間潰し。待ってて悪い。何か文句ある」
「特に無いかな」
「なら消えて」
「心配事があるんだったら、聞いてあげてもいいわよ?」
「メルトには関係ない」
「カイムと喧嘩したんだ」
「してない。なにそれ。メルトに関係ない。黙って」
エリスは短く言い捨てる。
笑みを含んでいた口角がすっと落ちる。腕を組み床石やらカウンターをかかとで蹴り始める。整列した酒瓶をぐしゃぐしゃに乱す。頬杖をついては崩し、小さく舌打ちを繰り返す。親指の爪を執拗に擦る。脚を組みかえる。下唇をいじる。眉毛を中指の腹でなぞる。自分の膝頭を殴り始める。ランタンに体当たりする蛾の軌道を苛立たしげな視線が追う。
テーブルの紅茶はすっかり冷たくなっていた。エリスはカップを握りつぶすように持ち上げ、一気に飲み干した。

「メルト。おかわり」
「温かいのはもう出ないわよ?」
「うるさい」
「あら?どうしたのよ、急にむすってなっちゃって」
「なってない」
「何か気に入らないことあったの?」
「なにもない」
「カイムと喧嘩したんだ?」
「してない」
「ふうん。ない、ない、ない」
「私が。カイムと喧嘩するはずない」
「怒ってるんだ?」
「怒ってない。カイムには怒ってない。相手の名前が知りたいだけ。カイムは人が良いから。騙されてる。誰よ。誰?リリウム?どこの娼館?カイムに取り入ろうって言うの?屑女。売女。低脳。露出狂。ゴキブリ女。お生憎さま。その前に顔中の皮膚が糜爛する」
「なに、その瓶」
「硫化ジクロロ酸エチル」
「仕舞って。お願い」
「信じられない。断りもせずに浮気するなんて」
「へえ。エリス、浮気されたんだ?」
「されてない」
「いいじゃない、教えてくれても」
「浮気じゃない。カイムと私の間にそんなもの存在しない。貴女と同じ。ただの性欲処理。私一人抱いてばかりだと飽きるから、休憩がてら、機械的に、道具みたいに便所女を買っただけ」
「そうカイムが言ったの?」
「言わなくても分かる」
「……わからないわよぉ?木を隠すなら森の中って言ってね。情婦を娼館に隠す例って結構あるわけ。カイムって娼婦みんなに優しいけど、案外、誰か特定の一人に優しくしたいののカムフラージュだったりして」
「そんなことない。死んで」
「だって誰と寝たのか教えてくれないんでしょ?」
「チッ……」
「うふふ。なるほど。それで?どこまでわかってるの?なんでわかったの?それって今日のこと?娼館の子なんだ?」
「……帰る」
「そ。お勘定はねえ」
「つけといて」


○ヴィノレタ・二階・廊下


三十分後――メルトは二階に上がっていた。
自室を覗き、クロゼット、ティアの寝室と通り過ぎ突き当たりまで歩いていく。
廊下の最奥にあるのはヴィノレタ唯一の空き部屋だ。ちょっとした物置として使っている。
酒樽、空き箱、箪笥、小机、蝋燭のストック。弦の無いギター、欠けた水差し、脚の折れたスツール。半ば粗大ゴミ置き場でもある。何が出てくるか分からない。普段はあまり近寄らない。ティアが越してくるとなった時向こうの部屋のものをがっと放り込んで済ませたのを思い出す。いずれ整理しなければなるまい。メルトは慎重に握りを回し扉を押し込んだ。
明かりはついていなかった。
右手をノブに掛けたまま暗闇へ一歩踏み入る。途端に埃の臭いが鼻をつく。
ぼんやりと浮かぶ木樽のシルエットの間になにか転がっている。目を凝らすとどうやらボロ布のように思える。
酒瓶の緩衝材にと箱に詰められていたものかもしれない。鼠に食われ穴だらけの毛布は元より人の使うものではない。どうして捨てずにいたか分からない。
扉を引き寄せて軽くノックする。毛布が不気味に蠢き出す。やはりそこに居るようだ。
壁掛け式のキャンドルランプを手で探り当て、メルトはマッチを取り出した。

「私のベッド、使っていいって言ったじゃない」
「お前の部屋は女臭い」
話しかけると案の定、埃まみれの毛布からカイムが顔を覗かせる。
寝ていたはずだが声はしゃんとしている。ああ、とかんん、とか寝言も聞かせないのはいかにも可愛げが無い。

「エリスは?」
「帰ったわよ。さっきね」
「やっとか。外したな。ジークの隠れ家でも借りるんだった」
「ああ、もう、埃だらけじゃない。ちょっと。カイムそこに立って」
「ほっとけ」
「いいから立ちなさい。ほら」
メルトが手を貸し引っ張り起こすと、カイムの身体からさらさら塵やら木屑やらが落ちていく。

「ああ。もう、ああ……」
「汚れてるな」
「なんてこと、ああ、聖女様……」
部屋中に白い綿埃が舞う。その中心でカイムは肩を鳴らしている。
一秒でも早く風呂に叩き込みたい。しかしヴィノレタに浴槽は無い。貸し湯もとっくに営業を終えた時間だ。メルトは頭を抱える。その隙にカイムは毛布を広げばさばさやろうという構え。辛うじて押しとどめる。
このボロ布を綺麗にしたいの?くるまる前に何故やらないの?そもそもこれが布団に見えたの?ゴーサインがどうして出るの?この埃で。ねえ。ねえ?詰め寄りたいやら離れたいやらメルトは二律背反の衝動に襲われる。カイムはまだ毛布をはたこうとしている。
世話になったから?俺が綺麗にしてやろう?やめなさい。自殺行為よ。今この瞬間貴方の肺は幾億のゴミを吸い込んでいるのよ?今この瞬間!メルトには皆目理解出来ない。

「ああん、カイム、もう、ああん……」
「変な声出すなよ」
「お願いだからそのボロキレは捨てて、お願いだから」
「汚れてるだろ」
「汚れてるからよ。もう、後で私がやっておくから。そもそも私の部屋で寝てなさいよ、もう、ああん……」
「ティアが起きるぞ」
「とにかくここ出て、私の部屋。直行!」
「腹減ったな」
「きびきび動く!」


○ヴィノレタ・二階・メルトの部屋


部屋に入ってすぐメルトはカイムを裸に剥いた。腰のナイフもホルダーごと向こうに捨てる。服は裏表ひっくり返して籠に突っ込む。
幸いお湯は幾らでもあった。階下から桶に汲んで戻る。カイムをベッドに座らせ熱いタオルで身体を拭いていく。自分でやると言う。黙らせる。

「メルト。こんなことしてていいのか。下は?」
「下って。埃まみれでよく言うわよ。腕上げて、ほら」
「まだ客いるんじゃないのか」
「帰しちゃったわよ。今日はもう閉店。カイムのせいで」
「へえ」
「へえじゃない。腕。勝手に下ろさない」
「うるせえな……」
「うるさいのはね。誰かさんがそうさせてるから。ほんっと、あんな所でよく寝れる。褒めてないから」
「自分の家だろう。そう言うんならしっかり掃除しとけ」
「それはもう〜、歯痒いくらいに後悔してる。何度も言うけど、寝るならここで寝てなさいよ。カイムはなに、前世が鼠か何かなの」
「お前の匂いを嗅いで一人で寝れるか」
「口説かなくていいから。はい、今度は左腕。胸を揉まない」
「人の服剥いでおいてなんだ、誘ってるんじゃないのか」
「盛ってないで。大人しくしてなさい」
「そう言われてもな」
「エリスに謝ってきなさいよ。むらむらしてるんだったら」
「断る」
「そもそも。そのなりでよくやる気になるわね」
言われて状況を思い出したのだろう、カイムは急に大人しくなる。
エプロンに潜らせていた腕の力が抜ける。メルトが胸から引き抜くとそのままだらんと下に垂れる。目に見えて萎えている。
都合が良いのでそのまま拭いていくことにする。湯気の立つタオルを広げカイムの掌を包む。親指と人差し指の腹で中手骨を挟み、指の根元を通って爪先までぐりぐり揉んでいく。
両手で掌をつかみ左右の親指で押し込むように刺激する。骨の感触を辿って手首まで行っては引き返す。四指を立て生命線の上にぐぐっと突き刺す。どうだどうだ、と突いた手を振動させてカイムの顔を見る。目を閉じ静かに息を吐いている。
カイムと自分の指を交互に絡ませる。そのまま直角まで手首を反らす。休憩。また反らす。前腕の骨をゆっくり手根でなぞっていく。メルトが娼館附きになって最初に覚えさせられた仕事がこのハンドマッサージで、相手の顔色の見方をはじめ前戯のいろはとも言うべきわざだ。これで案外性的興奮に繋がるものだが今度はまるで反応する様子が無い。それはそれで頭に来る。
タオルを湯で濯ぎきつく絞る。四つ折りにし掌に載せる。ほかほかのタオルをカイムの鼻に押し付ける。ぐしゃぐしゃ乱暴に拭いてやると顔を背けて抵抗する。
布越しに眼を軽く押し込み、眉毛を擦り、指の第二関節を立て眼窩に沿ってマッサージしてやる。ベッドに上がりカイムの背後に回る。
後ろから手を回し両掌で小鼻を挟んで好き勝手に弄ってやる。頬っぺたを揉み、ゆすり、軽く摘み、美顔マッサージを施してみる。カイムは神妙に頭を垂れている。あんぐり開いた口からみるに気持ちよくなっているのだろう。乳房で後頭部を支えているのだが別段気にする様子もない。口を開くと生意気だがこうして見れば可愛いもので、もし弟がいたらこんな感じなのかもしれない、なんてことを思う。耳に手を伸ばす。大人しくしているご褒美に耳たぶを挟んで弄ってやると静かに身体を震わせる。両のこめかみに親指を立てぐっ、ぐっと力を込める。タオルがすこし冷めてくる。
前髪を持ち上げ左右の生え際を順繰りに擦る。タオルを外し両眼を指の腹でそっと閉じさせる。そのまま強く頭を抱く。つむじに唇がつく。甘いような皮脂の匂いがする。逃げないよう腕に力を込めて伝え、頭皮に舌を這わす。また身体を震わせている。
一通り顔を拭き終わる。今度は上半身にいこう。今なら膝に跨っても平気かもしれない。拭いてやりはしたいものの足元に跪いて仕えるような体勢は想像すると腹が立つ。試しにスカートの裾を持ち上げ大腿に乗っかってみる。むむ、と眉毛が動くが尻に手を回したりはしてこない。
向かい合って首元にぺたんとタオルを当てる。延髄のあたりを円を描いて揉んでいく。カイムは目を細め、好きにしてくれといった様子。
だがメルトが凝視しているのに気付いたか、表情はすぐ嫌そうなものへと変わった。

「おい。見るな」
「カイム、ね、訊いていい」
「何も訊くな」
カイムの裸を見るのはメルトも久しぶりだった。
そこかしこに刃痕の走る胸を端から拭いていく。腹筋の割れ目に沿って強く擦る。
見覚えのある傷もあればないものもある。大きく抉れた三日月形の傷を脇腹に見つけメルトは懐かしく指でなぞってみる。

「カイム」
「駄目だ」
「むふっ、」
「笑うな」
年上の女はこういう時黙っていてやるものではなかろうか。
そう思って見て見ぬ振りをしようともしてみたがメルトは早くも限界の訪れを感じていた。

「エリスの話聞いてるうちはね、また過剰に反応してるのかなって思ってた。でもカイム。流石にこれはエリスじゃなくても怒られるわよ。全身で……」
汚れたタオルを桶で濯ぐ。
埃の塊が水面に浮き上がる。まとまった芥は出るが湯はそれほど黒くならない。

「全身で喧嘩売ってるもの」
「……あいつ何か言ってたか」
「いきり立ってたわよぉ。娼館の子に違いない、って。なんだか懐かしい感じ」
「しばらく泊めてくれ」
「どこの子だろう。確かに素人の手管じゃないわねぇ、どう見ても」
「なぞるな。触るな」
「本当、この身体じゃあエリスも怒るわよ。なに、もしかしてそのまま見せちゃったの」
「まあ、そんなような」
「お湯だって全然汚れないし。誰に磨いてもらったのやら」
カイムの裸を見るのはメルトも久しぶりだった。
縦横に走る刃痕、うっすら残る灰色の痣、火傷、縫合痕、裂創、擦過傷。
カイムの身体には無数の傷痕が刻まれている。それは彼が生きてきた証でもある。けれども。
カイムの身体には今、傷以外のものも無数に刻まれていた。それはまごうこと無き彼の情事の証だった。ベッドに腰掛けるカイムの肌は紅に染まっていた。

「どうなのよ、これ」
胸といい、腹といい、腕といい、腰といい、背中といい、目に付くところ全てがびっしり覆われていた。キスマークに。
なにかそういう妖怪みたいになっていた。

「化身、愛の化身なの?」
「死ね」
「嘘より真っ赤なキスマーク……ふんふ」
「歌うなっ」
「なに、これ、ねえ、笑っていいの?」
メルトはカイムの胸に残る吸い痕に指を這わせる。正面からじっくり眺めてやる。奥歯を剥いて威嚇される。

「はい、はい。わかってるから。そんな睨まない」
「全然分かってないだろう」
「わかってるわよ?」
「笑うな。指をさして笑うな」
「エリスじゃないのよね?これやったの」
「知らん」
「そのシラ、切る意味無いと思うけど」
「よく拭いたら消えないか」
「消えるわけないでしょ。ほら、キスの痕は愛のあかしよ、時間だけーが」
「だから歌うな」
「誰かなぁ、こういうことするのは。うわ、くるぶしまで……」
太腿から下に伸びる吸い痕は裏に回って点々とくるぶしまで続いている。これで爪先から手首まで繋がったことになる。執拗なマーキングの跡は歪んだ独占欲を窺わせる。
胸の辺りは特に酷い。カイムを寝かせ、ねっとり舌を這わす女の姿が目に浮かぶようだ。
また目立つのが首回りで、服の上から分からないようにという意図だろう、ここだけ手つかずの肌色が残されている。明らかに素人の発想ではない。
へその下に内出血で青くなっている痕を見つける。これは物凄い勢いで吸ったものらしい。相手はサディストかもしれない。頼まれてはいないがなんとなく想像してしまう。
素人でない、歪んだ独占欲を抱えた、キス魔のサディストが知り合いにいただろうか。
そうねえ……、と青痣を指でつつきながらメルトは訊いてみた。

「クロでしょ」
「うっ……」
一発で当たった。

「全部忘れてくれ」
「やっぱりそうよね。搾り取られたんだ、クロに」
「まあ……」
「クロらしからぬ所業ねえ。こんなことして、エリスにバレるってわかりきってるのに」
「ああ……」
「面白半分でやってるわね、多分」
メルトは目についた吸い痕を指で擦ってみる。当然消えるはずもない。

「ちょっと不用意じゃないのこれは。カイム、むふ……」
メルトは手を止める。目の前の仏頂面から顔を背ける。
クローディアはリリウムの稼ぎ頭だ。予約は一月先まで常に埋まっている。メルトはもう何も考えまいとする。
リリウムの前をうろうろするカイム。人目を気にするカイム。左右左を確認してニンジャの動きで店に入るカイム。つっぷして寝ている受付番。近寄り叩き起こすカイム。
身を乗り出すカイム。値段を尋ねるカイム。財布と相談するカイム。ちょっと贅沢してみたいカイム。決断を迫られるカイム。会員証にスタンプ押されるカイム。割引利いてちょっと得するカイム。日取りをメモするカイム。ナイフを抜くカイム。誰にも言うなと若い衆を脅すカイム。日取りをもう一度確認するカイム。わくわくしながら一月を暮らす、

「カイム……。くっ、むふっ」
「笑ったら殺す」
「無理、あは、あははは」
「おい」
「おこっ、むふ、怒らないでよぉ、くっ」
「お前なぁ……」
「ごめん、カイム、ごめんってば。でもね、カイムがね、クロのスケジュール確認してね、むふっ、予約してる姿ぐっ、ごほっ、こほっ、ふふっ」
「咽せるほど笑うな。人を」
「ごめん、ごめん」
「チッ……」
「ふふっ、それエリスみたい。二人とも似てきたのかな。ああん、怒らないの。裸でどこ行くのよ」
「服寄越せ」
「駄目、駄目。ちゃんと拭いてあげるから、大人しく座って。ね?」
メルトはごめん、と両手を合わせる。
合わせた両手から顔を倒して覗かせると、これは我ながら男心に訴えるポーズだと思っているのだが、カイムの視線は否定的だった。
メルトはとりあえずにこやかな表情を作ってみる。それから握手を申し込む。

「仲良くしましょう?」
「断る」
「ねえ、訊きたいんだけど。よく奮発したわね?クロ相手でしょう?」
「それはどうかな」
「だからそのシラ切る意味ないって」
「仮に、某としてくれ」
「じゃ、某嬢相手でしょう?奮発したじゃない。あくどい娼館主が値段吊り上げてるって聞くし」
「奴の勝手だろう」
「指名料だけでも相当な額じゃないの。その日暮らしのカイムがよくもまあ。なに、小金が入ったんだ」
「知るか」
「どうなの?ううん、そうねえ、私よりお高かった?」
「知らん」
「教えてくれてもいいじゃない」
「ハッキリ言っておくが。小金は入ってないし、指名もしてない。奮発もしていない」
「別に隠さなくても」
「隠しちゃいない」
「エリスには言わないし。私、口堅いわよ?」
「それは知ってる。でもお前、面白がって喋るだろ」
「え、面白いことなんだ」
「違う」
「待ってよ。ちょっと待って。お金使ってなくて、予約してなくて、でもクロと寝たわけでしょ」
「考えるな。俺を考察するな」
「あ。お金払ってないの?娼婦と寝て?……あらぁ、カイム様、それは御法度で御座いますわ」
「こ、声真似はやめろ」
「なるほど、なるほど。これをジークに報告して、私が小金を手に入れると」
「おい」
「はあい」
「メルト」
「なあに?」
「わかるだろう」
「わからない」
「わかれ」
「うーん?」
「メルト」
「黙っててあげてもいいんだけどなぁ。でも私、カイムに嫌われてるみたいだし。事情も教えてくれないし。身体も拭かせてくれないし。何でも相談してくれるような友達なら、庇ってあげたいんだけどなぁ……」
「タチが悪い」
「お金より友情を取りたいなぁ。でもお金で買える友情もあるわよね」
メルトはもう一度右手を差し出してみる。カイムの表情は嫌そうに歪んでいたが、今度は握手が成立する。
すっかり冷めてしまったタオルを桶に浸け繰り返し濯ぐ。湯気こそ立たなくなったが水はまだ温かい。

「それで。どういう事情なの」
「誰にも言うなよ」
「大丈夫よ。私口堅いから。ほら、脚伸ばして。誰に一番知られたくない?」
「誰にも知らすな」
カイムの声は少し上擦っている。

「勘違いしないよう言っておくが、最終的には同意の上でのことで」
「前置きはいいのよ。前置きは。それで?」
「媚薬を盛られた」
「クロに。ふうん、媚薬?斑猫、カンタリス?なんてもう慣れっこよね。ああ、じゃ最近噂になってる新しいの、あれでしょ。なんだったか、トリキーネザクロのお茶?」
「そうらしい」
「意外。カイムでも我慢利かないんだ」
「違う。トリキーネザクロの茶飲まされ、トリキーネザクロの香焚かれ、トリキーネザクロのなにかぬるぬるしたヤツ塗られた。おい。笑うな」
「暗殺者カイムの無慈悲な冒険、第一章。罠には特に気付かない」
「死ね」
「第二章、八つ当たり」
「いいか。誰にも言うなよ」
「ふふ、薬を盛られたなんて知られたら沽券に係わる?」
「そういうことじゃあない」
「だったらエリスに説明すればいいじゃない。媚薬を盛られて仕方がなかったって。生理的反応よ。医者なんだから理解してくれるわよ」
「本気で言ってるのか、それ」
「まさか」
「茶化すな。エリスに知られてみろ。肌が焼け爛れる、緑色の発疹が出る、原因不明の高熱で脳がイく、足の指が溶ける、あいつはどんな薬も持ってる。クロの身が持たない。たとえ実行に移さなくともだ。あいつは嫌がらせに関してだけはクリエイティブなんだ。クローディアが標的にされる。ストレスでまつげが抜けたりしたらどうする。気の毒すぎる」
「他の女を庇うのは浮気らしいわよ?」
「なんだそれ」
「エリス基準だとね。あと、カイムって今娼婦に騙されて利用されてることになってるから」
「はあ?」
「だからエリスの中ではよ」
「……あいつ妄想癖があるから」
「ふむ」
「騒ぎ立てるのが好きなんだ。裏切りだの、背信だの、死ぬだの」
「でもねえ。浮気は浮気よね」
「話聞いてたか?浮気とは違うだろう。ブレーキ的なものがちょっと散歩に行った的なことだ」
「浮気よね」
「人によって判断は分かれる」
「エリスがどう思うかくらいわかるでしょ。過ぎたことは仕方ないにしても」
「うるさいんだよあいつは」
「罪悪感あるなら素直に謝ればいいのに」
「そんなものは無い」
「本当?信じがたいなぁ。逃げてきたくせに」
「逃げてるわけじゃない。散歩してるだけだ」
「一緒じゃない」
「一緒じゃない」
「その意地張る意味あるの?」
「おいメルト。お前はどっちの味方なんだ」
「エリスに決まってるじゃない」
「ハァ?」
「私はエリスの味方だから。女がいつも泣き寝入りしないように、弱い方につかないと」
「普通弱い方というのは家に帰れない方を言うんだ」
「それ聞いてる話と違うもの。落ち着いて、公平な立場で事情を聞こうとしたらカイムが逃げていったって」
「それが嘘だ。あいつは間違いなくキレていた。名前を言いなさいどこの糞女よと叫んでたし、ナイフを握っていたし、俺の皮膚を一枚か二枚剥がそうとしていた」
「もう少しエリスの気持ちになって考えてあげれば?」
「なんでそう繋がるんだ」
カイムは後頭部を掻きまわす。そうして、

「聞け、あのなあ……」
カイムは話し始めた。

(つづく)
『仔羊のショートロイン網脂包み焼き』(3/3)