エロゲー 夏ノ雨 ひなこss『パーフェクトクライム』

夏ノ雨 ひなこss『パーフェクトクライム』
説明:共通ルート
ちょっと理香子と仲良くなるひなこさん



ごくり――。
相棒の唾を呑む音に、伊東ひなこは顔を上げた。
一瞬交錯した二つの視線は直ぐに机の上、同じ”ブツ”へと戻っていった。
「理香子ちゃん……やっぱり駄目だよこんなの」
「黙って」
瀬川理香子は静かな、しかし刺す様に鋭い声でひなこを制する。
「早くしないと、あいつが戻ってくるわ。そうしたらお仕舞いよ私達。一巻の終わり」
「でも……」
「静かに。いい、今は議論している時間は無いの。やるか、やらないか。二つにひとつよ」
「うん……」
「今やらなかったら、もう諦めるしかないわ。警戒は厳重を極めているの。ここへ辿りつくまでに私達が払った犠牲を忘れたの?」
「ううん……」
「なら分かるわよね。今すべきことが」
「理香子ちゃん、わたしの代わりに……」
「いいえ。それはあなたの仕事よ。初めに言い出したのはあなたなんだから」
理香子はそのまま腕を組み、”早くしろ”とばかりに顎で合図を送ってくる。
確かに、自分が言い出したことであった。
でもそれをこうして実行に移したのは理香子ちゃんじゃないかなぁ……。ひなこはそんなことを思う。
あれよあれよと言う間に、もう引き返せない所まで来てしまっていたのだ。
自分一人だったらそもそも、今だ居間でお茶を飲んでいたに違いない。どこか燻った思いを抱えながら……。
”心のスキマ、お埋めします”
そんな台詞が脳裏をよぎる。黒い予感にひなこは少し身を震わせる。
確かに、計画を立案したのは理香子だった。それをここまで完璧に遂行してみせたのも理香子だった。
アシのつかない侵入経路、逃走ルートの確保、崩せないアリバイ……全て、考えたのは理香子だった。ひなこはただびくびくしながらその後ろを着いて行くだけだった。
でも……そう、自分だけじゃない。理香子だって興味があったに違いない。
だから、だからせめて、最後の実行犯は公平に……あみだクジとか黒ヒゲさんゲームとかで……。
そんなことを思わず言いかける。
しかし理香子の顔を盗み見た途端その気は失せてしまった。
いつもより三割増しで不機嫌そうな理香子の表情には、幾分か緊張の色が窺える。
腕を組み足先で床を叩いているその立ち姿に、美人さんはいついかなる時でも美人なんだなぁ、とひなこは妙に感心した。
まだもじもじとしている部下に業を煮やしたか、ふいに理香子は拳で壁を打った。
突然の出来事にひなこは小さく悲鳴をあげる。
「いい、もう一回だけ言うわよ。やるの、やらないの」
「も、もうちょっとだけ待って……」
「鬱陶しいわね……これだから日本人は」
「理香子ちゃんってハーフだったの!?」
「は?そんな訳ないでしょう。どこからどう見ても日本人じゃない」
「でも、脚長いしキレイだし……」
「あなたね……脚の短いことが日本人の定義なの?違うでしょう。眼窩が深く落ち窪んでいないか、虹彩は黒褐色か、そういったモンゴロイドの特徴を用いて人類学的に判断しなさい」
「理香子ちゃんの瞳、赤い」
「…………」
「…………」
「わ、解ったわ。私が悪かった。異論はあるかもしれないけど私は自分の国籍が日本だと信じているわ……これでいいでしょう?」
「え……うん」
「大体ね、私の出自なんかどうでもいいのよ。そうよ、あなたふざけてるの。早くそれ、開けてしまいなさい」
「それは……」
「いつあいつが帰ってきてもおかしくないのよ。私達には時間が無いの」
「だって……もしバレちゃったら、ソウくんに怒られるの。もしかしたら顔も見たくないってわたしのこと、嫌いになっちゃうかも……」
「あなたねぇ……そんなに大したものじゃないんだから」
「大したものだよ。ソウくんにとって本当に大切なものなんだよ。こんなの初めてだって言ってたし、あんなに嬉しそうにしてたもの」
「あなたにはあれが嬉しそうに見えたの……?まあ、間違っちゃいないけどもっと、調子に乗ってるというか……殴りたいというか」
「わたしはソウくんにあんな顔、させてあげられないもの……」
「だったら止める?あなたはそれでいいの」
「えっと……」
「……そうね、解った。率直にいきましょう。私は、自分がこんなものに興味をそそられているという事実を認めるわけにはいかないの。だから、自分で開封するわけにはいかない。あなたは宗介に発覚するのが怖くて、開けられない。これでいいかしら」
「……うん」
「少し待ってなさい」
理香子はそう言い残し足早に部屋から出て行った。
ひなこはカルガモの子供のように、その後をぴったりついて行く。
「待っていろって言ったでしょう……」
理香子は玄関で足を止めると、扉に取り付き作業を始めた。
すぐ後ろで見つめるひなこの元に、ガチャガチャと金属が擦れ合う音が届く。
続いて何事か悪態を吐く理香子の声。
一分ほどして、一仕事終えた吐息と共に理香子が後ろを振り向いた。
「いい、今玄関にチェーンを掛けたわ。不自然に思われるから本当はしたくなかったんだけど、仕方が無いわね。とにかく、これで宗介は絶対に家に入って来れないわ。分かる?絶対に入って来れないの」
「ごくり……」
「これであなたの不安は解消されたわ。あなたが行動すれば、わたしの不安も解消される。差し当たって必要なのは……迅速を重んじること」
密室……完全犯罪……。
ひなこの脳裏に物騒な単語がよぎる。
同時に、得体の知れない高揚が生まれる。
「何をしても怒られない……?」
「そうよ」
「ソウくんのシャツの匂い嗅いでも?ソウくんのベッドで寝てもいいの?」
「何言ってるのあなたは……」
ひなこはたまらず、宗介の部屋へと走りだした。

部屋に飛び込んだひなこが初めに思いついたのは服を脱いで宗介のシャツを身に着けようということだった。
その上で宗介の枕の匂いを嗅ぎながら宗介の布団にくるまって眠るのだ。
それはきっと母胎に帰るような体験だろう。想像してひなこは少しうっとりとする。
しかしスカートのホックを外しファスナーに手を掛けたところで理香子に押し止められた。
「あなたね……他にやることがあるでしょう」
「やること?」
「三歩進んだら忘れるのね、あなた……ほら」
「あ……!」
宗介の学習机が据えてある部屋の一角。
机とキャビネットの引き出しは残らず乱暴に開け放たれ、まるで空き巣が入った跡のようだ。
理香子の指は正確に、机の上、一通の便箋を指し示していた。
古典的な、ハートマークで封をされた便箋だった。



「いやぁ、それがさ。参っちまうなぁ。だって顔も名前も知らない子なんだぞ」
「ふうん」
「なのに”宗介先輩にずっと憧れていました”だもんな!おいおい、それはキミの幻想かもしれないぞ、みたいな。あはは」
「……ずっと憧れていました、ねえ」
「なあ、理香子はどう思う?この子俺のどこが……ほら、好きになったんだと思う」
「さあね。その子、私とは価値観が合わないみたいだから」
「そうか、まあいいや。でもどうすっかなぁ、今時ラブレターってことは内気な美少女なのか?それとも古風な美少女なのか……」
「なんで美少女限定なのよ」
「そりゃあ字からなんつーの、オーラが出てるんだよ。便箋も芳しい匂いするし」
「ちょっと貸してみなさい」
「おっと!駄目、駄目」
「…………」
「名前書いてあるし、噂されたら可愛そうだもんな。一生懸命書いてくれたんだ、こっちだって誠意を尽くさないと」
居間から少し距離のあるキッチンで、ひなこは食器を洗っていた。
水音に、会話は途切れ途切れでしか聞こえない。
早く終わらせてそこに混ざりたいと思う一方で、こうして家事をしながら宗介達のやり取りを想像する時間もひなこは好きだった。
たまに様子を窺うと、2人は口で喧嘩をしながらそれでもソファに隣り合って座っているのだった。
しかし今は、理香子は宗介の死角で、拳を固く握りソファを殴りつけていた。ドスッ、ドスッ、と重いパンチを……。
ソファ、壊れないといいんだけど……とひなこは思う。
「なあ、ひな姉はどう思う」
「……何がだっけ?」
「だから、コレだよコレ。実はな、今日俺の下駄箱にコレが入ってたんだ」
「お手紙?」
「そう、それもラブレターだぞ、ラブレター!キレイな便箋にハートの封付けで」
「そうなんだ」
「ずっと俺に憧れてて、俺が理想のタイプで、突然で驚いたと思うがぜひ付き合ってくださいって言うんだよ俺と」
「凄いんだ、ソウくん」
「ひな姉は知ってるだろうけど、こんな手紙貰うの初めてだから参っちゃってさあ」
「へぇ……知らなかった」
「そうか?でもやっぱこの時代にラブレターっていうのがいいよなあ。流行に踊らされずちゃんとしてるっていうか、気持ちが伝わってくるもんな」
「なんて言う子なの、クラスメイト?」
「それが知らない名前なんだよ。一年なんだけど……そうだ。ひな姉の後輩かもしれないな」
「なんて子なの?」
「……まあ、もしひな姉の知ってる子だったら悪いし。内緒」
「ふうん?」
「ひな姉もどんな子だか一緒に考えてくれよ。えっと、取り敢えず読み上げるとだな……桜井宗介先輩へ」
「ふふっ、ソウくんなんだか楽しそうだね」
「そうか?」
「うん。なんだか声が弾んでるもん。ラブレター貰えて良かったね」
「ひな姉は貰ったことないのか?」
「わたし?ううん、ないよ。でも、ソウくんがそんなに楽しそうにしてるんだから、やっぱりいいものなんだね」
「ま、悪い気はしねーけど」
「わたしも書いてみようかな……ソウくん欲しい?」
「いらない」
「あなたたち絶対オカシイわ、会話が……」
「慣れればどうってことないよな」
「そうだよ」
「…………」
「いいからちょっと聞いてくれ。行くぞ、えー、桜井宗介先輩へ。突然のお手紙ごめんなさい。私は1-Bの――と言います。宗介先輩は私のことをきっとご存じないと思うのですが、」
「ちょっと待ちなさい。なんでこの子は宗介に敬語使ってるのよ。ご存じない、なんて」
「そりゃ後輩だからだろ」
「納得いかないわね。いずれ同級生になるっていうのに」
「どういう意味だよ……続けるぞ。――ご存じないと思うのですが、どうしても宗介先輩に伝えたいことがあり、こうして筆を取らせていただきました」
「学生が筆をとるなんて表現使うのはオカシイでしょう。きっと頭の弱い子ね」
「うるせえよ!」
「ふふっ、背伸びしてる感じが可愛いね」
「そうだよな。理香子は分かってねーよなぁ。――宗介先輩は一月ほど前、コンビニで万引き犯と間違えられて困っている女の子を助けてくれたことがあると思うのです」
「助けた、よ。オチがバレてるじゃない」
「だからうるせえよ!」
「ソウくん偉いわ!」
「あら、それなら面識あるんじゃない」
「顔は覚えてねえの。ずっともじもじしてたし。えー、それから。――実を言うと、それは私なのです!あの時は助けてくれた先輩にお礼も言わず、逃げてしまいました。泣いてしまって訳が分からなくなっていたのです。本当にごめんなさい。それから、本当にありがとうございました」
「これでお仕舞い?ラブレターじゃなくて感謝状じゃない。妄想も大概にしなさいよ」
「二枚目があんだよ。一々突っかかってくるなよ――私はあの時の先輩(宗介先輩のことです)にお礼をしようと思い、頑張って名前を突き止めました。それから、休み時間の度に先輩のクラスを覗いて、何とか先輩にお礼を言おうとしたのですが、なかなかその勇気が出ませんでした」
「先輩先輩うるさいわねこの子」
「――いつしか休み時間に先輩の姿を見に行くのが日課になり、毎日の楽しみになっていきました。やべーコレ、恥ずかしいな」
「ふふっ、可愛いねこの子」
「――宗介先輩は朝の時間は居ないことが多くて、三時間目くらいに来るんですね。私は少し心配です」
「軽く説教されてるわ……」
「ソウくん、朝ごはんはちゃんと食べてる?」
「おお、食べてる。――気がつけば、宗介先輩のことばっかり考えている自分に気がつきました。あーもう、理香子分かったっての。――それからというもの、宗介先輩にずっと憧れていました。宗介先輩は私の理想のタイプです。不良だけど心は優しい宗介先輩の」
「不良だけど……ふふふ」
「ソウくん、不良じゃないよね」
「――心は優しい宗介先輩のことが大好きです。突然のことできっと驚くと思うのですが、お付き合いしてもらえないでしょうか。宗介先輩に私のことも知ってもらいたいのです。私のクラスは1-Bです。お返事お待ちしています」
「理香子ちゃん、なんだかドキドキするね」
「私は別に……それで宗介、どうするの」
「まあ待てって。――追伸。宮沢先輩に聞いたのですが宗介先輩はお付き合いしている人が居ないのですよね?宮沢先輩から聞いたのですが宗介先輩は巨乳の女の子にしか興味がないというのは本当ですか?努力してみます。翠……」
「翠……」
「翠ちゃん……」
「……まあ、こんなとこだ。やばいだろ?なんつーか、やばいだろ」
「別に」
「お前はモテるからこんなの日常茶飯事だろうけど、俺にとっちゃ一大事なんだよ!」
「なんだか素敵……きっとこの子、ソウくんのことヒーローだと思ってるのよ」
「ぶふっ、ふふ、宗介がヒーロー……面白いこと言うわね」
「笑うところじゃねーよ」
「そうだよ。笑うところじゃないんだよっ。ソウくんなら女の子の一人や二人……」
「一人や二人?」
「ええと、ええと……手篭めに、違う、手慰みに、違う……」
「とりあえずな、これが人生に三度来るというモテ期っつーものではなかろうかと思うワケだ」
「え。もしかして宗介って告白されたこと、ないの……」
「お前部屋に戻ってろマジで」
「何を求めてるのかさっぱり分からない」
「いや、だからさぁ。ちょっとくらい祝ってくれてもいいんじゃないか」
「何かおめでたいことあった?」
「……あのな。なんでさっきから一々突っかかってくるんだよ」
「それは宗介の被害妄想」
「せめて水差すなよ」
「差してない」
「二人とも、喧嘩はやめよう?」
「喧嘩なんてしてない」
「喧嘩なんてしてないわ」
「ご……ごめんなさい」
「……私部屋に戻るわ。なんだか、私のこと気に入らない人が居るみたいだから」
「チッ……」
「チッ……」
「二人とも、舌打ちはやめよう?」



それから暫く、二人はラブレターの送り主を話題に盛り上がったがその間もひなこは部屋に戻った理香子の様子が気に掛かっていた。
そこで一応理香子の部屋を覗いてみることにする。
そう断ると宗介は軽く肩をすくめ、ひなこが快活と信じるいつものやり方で笑った。

「理香子ちゃん、コーヒー持ってきたんだけど……いらない?」
「……貰うわ」
「えっと。じゃあ、入るね」
「どうぞ」
ひなこが躊躇いがちに扉を開けると、理香子はベッドに寝そべり本を読んでいた。
「その辺に置いといて」
「……理香子ちゃん、少しは落ち着いた?」
「なにがよ」
「ソウくんと、喧嘩」
「喧嘩なんてしてません。調子乗って宗介が絡んでくるだけよ」
「そうなの?」
「そうよ。手加減してあげてたら調子に乗って……そろそろ無慈悲な鉄槌を下さないといけないわね」
「下す頃になったら教えてね」
「大体何、あなた気にならないの。この調子だと、あなたの大事なソウくんがいなくなるかも知れないわよ」
「なんで?」
「なんでってねえ、宗介に彼女が出来るかもしれないのよ。それも宗介を理想のタイプって言っちゃうような勘違い女の……ああ、別にあなたの事じゃなくて。あの恩知らずはね、彼女が出来たらあなたのことなんて歯牙にもかけなくなるわよ」
「ソウくんは恩知らずなんかじゃないよ。小さい頃にね、わたしの誕生日に”ひなねえいつもありがとう”ってお手紙をくれたことあるもの。それがね、一週間くらい前かなぁ、ソウくん家のカレンダーに”ひなねえのおたんじょうび!ぷれぜんと”って書いてあるのわたし見つけちゃって。ソウくんは何くれるんだろうって考えたら我慢できなくなってそっと覗きに行ったの。そしたらソウくんがね、練習ドリルを一生懸命なぞって書いてるのよ。私それを見てたからいざお手紙貰って読んだら嬉しくって泣いちゃったの。だってひらがな、凄い上手に書けてたのよ?私の大事なお守りなの。あの頃のソウくんはね……」
「ストップ。いきなり饒舌になるの止めてもらえる?」
「ああん……ごめんなさい」
「あなた、宗介のことが好きなんじゃないの」
「大好きだよ」
「……ちょっと。もう少し恥じらいってモノを持ちなさい」
「?」
「普通、好きな人に彼女が出来るってなったら焦ったりとか、嫉妬したりとか……宗介と付き合いたいって思わないの?」
「それは……」
「ほらみなさい。……あら、じゃあさっきの宗介と一緒に喜んでたのはポーズな訳?あなた意外に……」
「わたしが望む関係を、ソウくんは望んでいないのかもしれない」
「は?」
「ソウくんと付き合えたら楽しいだろうなって思うけど。ソウくんの望みは違うかもしれないの」
「まあ……知らないけど」
「それなら、わたしの気持ちを押し付けるのは嫌だよ。ソウくんがソウくんのしたいようにする。わたしはそれがいい」
宗介が宗介のしたいようにする。
一方で、宗介の傍にいたい。
この願いの両立しないことがひなこには確かなことのように思われた。
「……ソウくんには内緒だよ」
言葉に嘘は無かったが、単に宗介に拒絶されるのが怖いだけだともひなこは自分で知っていた。
進んで行動をしないうちはどちらも曖昧に続くことも。
そっと校庭を覗いたり、移動教室のときにちょっと遠回りしたり。
橋のまわりをぶらぶらするのでも、家に食事を作りに行くのでも。
宗介の居ない三年間を思い出すと、相対して今という時間が輝いて見えるのだった。
「それに、ソウくんはわたしの弟みたいなものだから」
「私の弟よ」
「そうなんだけどね……あれ、理香子ちゃんの方が早生まれなんだ」
「当たり前でしょう。あいつ兄要素ゼロじゃない」
「朋実ちゃんがね、小さい頃わたしの真似してソウくんのことソウくんって呼んでた時期があったの。そしたらね、ソウくんがいじけちゃって。オレのこと兄ちゃんって呼ばないのはなんでじゃーって。オレが頼りないからなのかって。それで朋実ちゃんにいいとこ見せようと商店街までお手て繋いで連れて行ったり、野球の素振り毎朝したりしてたのよ」
「だから突然そういう”あの頃キミは”みたいなエピソード語り出さないで……」
「お兄ちゃんっぽくないかな。えっと、兄要素?」
「ああ、そういうこと。それを先に言いなさいよ脈絡ないのよあなた」
「ごめんね?」
「でもそうか、宗介も小さい頃は可愛かったのね……今じゃひねくれてるけど。他には?」
「え……何がかな?」
「だから、宗介の小さい頃の話よ。話したいなら聞いてあげてもいいわよ」
「いいの?それじゃあね……フスマの話。週末にはいっつも夏子おばさんがウチにお酒を飲みに来てたのね。朋実ちゃんは小さいから家でお婆ちゃんとお留守番だったんだけど、ソウくんは枕持ってお泊りに来るの……」



 小さい頃、自分の部屋なんて洒落たものは持っていなかった。家は広く二階もあったが多くは物置に使われていた。私の母は自分の家に遊んでいる空間があることが気に入らないようだった。空いた部屋には物をなんでも放り込んで埋めてしまった。階段を上れるようになって暫くは自分の世界が広がったようで嬉しくて、ちょっとした冒険と宝探しに明け暮れたものだ。埃まみれになり荷物を散らかしては母に叱られた。そうしているうち気がつけば二階も然程特別な場所ではなくなっていたが、今度は玩具や外で拾ってきたもの、よく光る石なんかを隠す秘密の用地と化した。私の領土になったのだ。
 生活の場は主に一階だ。ダイニングキッチンに隣接する10畳の居間には長四角のちゃぶ台がどんと据えられていた。その東の壁に隙間無くつけた飾り棚の上には小さなテレビが置いてあった。テレビは箱型で、と言うのもそのものずばりぴったりした木箱に納められていて、今で思うとやたら画面の外枠が太かった。旧式に画面の下には番号つきボタンが10ほど並んでいて、近づくとぶんぶん唸った。
 そんな家の二枚の襖戸。二枚の襖戸が寝室と居間を隔てていた。裏といい表といい落書きで埋めつくされ、地の花柄がその間から覗いていた。姉弟は夜になるとその襖の向こう側にもっていかれた。
 寝室には薄い布団が四枚、わずかの隙間も埋めるように敷かれている。眠気の頭にちらつかない夜は布団をかぶる。布団をかぶると向こうからその日の出来事を伝える声が聞こえてくる。何時の間にかすっかり覚えてしまったニュースキャスターの声。薄い襖の端からは光が漏れている。耳を当てると何を言っているのか聞き取れる。物音を立てないよう慎重に横顔を押し付けて、テレビの音声と時々生まれる親達の会話とを聞く。襖一枚向こうでは日常がまだ行われている。寝室は寝るための場所でそいつは毎日やってくるけれど、生活とはまた別のモノのように思えた。
 テレビの音、会話する音、立ち上がる音、電子レンジの音。色々な音に壁の向こうの生活を想像するのは楽しい作業だ。だから気づけば、毎日耳を澄ましている。寝室から出ると怒られる。まだ起きてたの。早く寝なさい。だけど時々無性に答え合わせがしたくなる。誘惑に駆られて隙間の光をちょっと拡げては閉じる。目を当ててもよく分からない。段々我慢が効かなくなって眠気もまだまだやって来ない。そういう時にはしたくもない小用を装ってみたり、さびしくなった振りをしたりする。小賢しい真似を思い付いて不思議の襖を開ける。すると漏れていた光の筋はたちまち大きくなり私は目を開けていられない。こうやって答えあわせをして満足して床に戻って、毎日寝るまでの時間を過ごすのが決まりだった。
 でもたまに、一度行って帰ってきてもまだ満足できない時がある。そんな日に限ってなかなか寝付けないものだ。姉弟のうちどちらかにそういう日が来るともう一方も気になって、結局どちらも目が冴えてしまう。襖に耳を当てたままヒソヒソ声で会話して、どうやったらもう一度この向こうに行けるのかを話し合うのだ。そうしていると急に睡魔に襲われて力が抜け襖にぶつかる。頭が当たるとドンと鳴る。襖が揺れる。そいつでヒヤリと汗をかいて、一呼吸のち二人ともドタドタと布団に滑り込む。頭から被った布団の中でバレやしなかったかと息を潜める。しばらくしたらまた、ちっとも懲りず襖に戻る。
 するとある時気が付く。この襖からは紙の匂いがするものだ。つまりこいつは紙なんだ、と。その思い付きに胸は躍って、次の日には鉛筆を懐に仕込んでお利口に布団に入る。おやすみと告げる声が聞こえて、電気が消されススッと襖が閉じる。体じゅうがウキウキと弾もうとしていて、抑えるのに一苦労だ。布団の中で十数えたらもう我慢はきかない。飛び起きてそろおり襖にひっつき耳を当てる。いつものキャスターの声にも今日ばかりは意識が回らない。横を見れば弟も興奮した顔でこちらを見つめている。昼のうちに計画を明かしておいたのだ。ドキドキしながら下着に挟んでおいた短くなった鉛筆を取り出す。そっと先を襖に当ててぐるぐると回してみる。押し込むと柔らかく沈む和紙の感触が心地よい。押す力を徐々に強くしていくと静かな手応えと共に先端が潜る。そっと鉛筆を抜いて見ると確かにこちら側に穴が開いている。けれど未だ光は差さない。穴を覗くとなるほど向こうにも紙が張ってあるのかと納得する。もう一度鉛筆の先を穴にあてて今度はやや勢いをつけて回してやる。こうして、弟と鉛筆の取り合いをしながらゆっくりゆっくり穴を拡げていく。鉛筆の太さだけに拡がったら今度は指を挿れる。ふにふにと摘みながら指を回すと破れた襖の端は内側にしまわれて、穴の具合が非常によくなった。一大作品を作りあげた達成感に頬を緩ませる。弟とかわるがわる穴を覗く。するとかすかに光が透けて見える。残るは薄皮一枚といったところ。もう一度同じことをやってしまえば向こうの世界は筒抜けだ。それはどんなにか素晴らしいことだろう。今やその自由は我が掌に握られている!……しかしこれを破けば向こうからもこちらが見えてしまうのではなかろうか。肩を叩いた弟にそう囁かれて我にかえる。まったくもってその通りだ……。



「だからなんなのよ!」
「え、楽しかったなあって」
「びっくりするくらいオチの無い話をするわねあなた……」
「結局穴を開けたんだけど、すぐ見つかっちゃって二人で怒られたんだよ」
「そう、よかったわね……」
「それでね、お絵描きに使った画用紙貼って修理するんだけど、直せるんだったらまたやってもいいよねってことになって何度も穴開けては怒られたの。ウチの襖はだからボロボロなんだよ、ふふっ」
「なんかどっと疲れたわ……」
「次はなにかなぁ、そうだ。私がこっちに引っ越してきてすぐのことなんだけど、夏子おばさんに買い物を頼まれて」
「ストップ。その話はまた今度にしましょう」
「えー」
「嫌ならそこの壁に話してなさい。貸してあげるから」
「理香子ちゃんに聞いて欲しいな」
「……それより、今はもっと差し迫った問題があるでしょう?」
「なんだっけ」
「宗介よ、宗介。いいわ、百歩譲ってあの軽佻浮薄は不問としましょう。初めて告白されたって言うんだから、浮かれるのも仕方がないわね」
「あんな楽しそうなソウくん、久しぶりに見たなぁ……」
「でもね、よく考えてみなさい。今の宗介は浮かれてるの。正常な価値判断力を喪失した状態なのよ」
「うん?」
「本人が正常に判断を下すことが難しい場合、誰か後見人がその代わりを務めることになっているの。歴史上も法律上もね。幼い天皇に代わり摂政が政治を行う。本人が心神喪失している場合には法定代理人に代理権が発生する。例えば未成年の場合は親権者にね」
「うん……うん?」
「偶然にも、ここに宗介の姉を自任する人間が二人揃っているわ」
「理香子ちゃん、ちょっとわたしには難し……」
「つまり、私達には宗介が正しい判断を下せるよう輔弼する義務があるの。復唱して」
「わたし達にはソウくんが正しい判断を下せるよう輔弼する義務があるの?」
「もう少し噛み砕いて言うとどうなるかしら」
「わたし達はソウくんの為になることと、ならないことを代わりに判断する必要がある?」
「悪くないわ。あなた、結構頭良いのね」
「えへ、そんなことないよ?ありがとう」
「……あなた宗介の為に一肌脱ぐのは面倒臭いと思うかしら」
「思わないよ!」
「なるほど。じゃあ今の場合、その一肌を脱ぐために必要なモノっていうのは何かしら。宗介が告白を受けるか受けないかを決めるためには相手がどんな人かを知らないといけないわ。例えば名前とか……」
「あ、ラブレターだねっ」
「それが必要だと思う?」
「思うよ、理香子ちゃん!」

理香子の行動は素早かった。
宗介に先ほどの態度を謝罪し、お詫びがしたいと話を持ち出した。
その豹変振りに驚く宗介の手に理香子は紙幣を握らせた。
”仲直りのお茶をしましょう。好きな茶菓子を買って来い”
宗介は首を傾げながらも、悪い気はしないのか直ぐに家を出て行った。
その後姿を見送る暇もなく、ひなこは理香子に引っ張られ宗介の部屋へ突入したのだった。


暗転