エロゲー 夏ノ雨 翠ss『サンドバッグ』

夏ノ雨 翠ss『サンドバッグ』
説明:「つかれてるんならやめれば?」
翠ちゃんにはよくあること。



○自宅


「ま、マズイ……!?」

 時計を見れば短針は5にビシッ。長針は8にグサッ。時既に17時40……41分を迎えていました。違う違う。気のせい気のせい。短針は4のはず。まだ16時……、ちらり。ビシッ!

「あわわ……」

 何度確認しても5と6の二字の間に収まったまま時針は微動だにしてくれません。17時42分。あれ、さっきと何か違う……。
 余裕を持って17時30分には家を出たかったんです。出るはずだったんです。本当なら今頃駅に着いていて2番線ホームの白線の内側まで下がっているあたしです。急行電車が入ってきてでもちょっと混んでいてどうしようかな次の各停でいっかうふふ。それこそ真の姿のはずなんです。学生たるもの5分前行動が基本です。ところが……。時刻17時42分のあたしは未だ自分の部屋に立っていました。右手にサンダル、左手にフレアワンピースを掲げて。下着で。
 ベッドの上にはよそゆきの夏服が候補A候補B候補C飛んで保険として普段着の候補Xと広げてあります。そして足元には選外となった敗者たちの山、山……あれ、でもこのレースタンクは悪くないような。総レースでちょっぴり透け気味のタンクトップは生で着るとキツイですけど下に黒地で合わせたらいけるような、無地のフライスキャミがどこかにあったような、うーん……はっ!
 いけない。危うくまたコーディネートの無間地獄に嵌るところでした。このレースタンクは今日は無しにしましょう。なんかエッチっぽいので。お腹とか透けてるし。そう決めてえいやっと壁の方に放ります。でも彼女がふぁさーと音も無く着地したその先に探していた黒地のキャミソールをあたしは見つけてしまいました。これは……運命?そうなの?さそり座のあなたはちょっと大胆に攻めるのが吉なの?

「ううう……、ぐぬぬ……」

 ぐぐぐ、とあたしの右手は勝手に黒地のフライスキャミソール(¥680)とちょい透けレースタンク(サマー福袋)を拾いあげベッドの上に並べてしまいました。救いがあるとすれば裾はタックイン一択ということでしょうか。福袋に入っていたもので丈があたしにはちょっと長いのです。とするとバランスを考えてボトムスはロングのシフォンスカートに決まります。タックインでミニだと残念なスタイルがバレバレです。足元もそれならウェッジサンダルでよろしい気がします。おお!すごく自然にコーデが決まりました。スカート、それからサンダルとベッドの上に広げていけば、やっぱり思った通りです。あたし史上類を見ないゆるふわです。図らずもパステル調でまとまったコイツを纏えば、森、森ガール。そう、世人を惑わすニンフ的な。手持ちの服の少なさがこんな形で役立とうとは。うん。これが候補Dとして……ておい、候補増やしてどうする……。そのまま流れるような動きであたしは頭を抱えました。
 チック、チック、と時計が秒を刻む音。この段に至ってあたしは重大な決断を下しました。時計は見ない。そう、なんか怖いので……。集中。うん、集中です。時間のことは忘れて衣装選びに専念する。それが結果的には服を着るための最短ルートとなるんです。それからもう一つ。考えてばかりいても埒が明きません。今ある選択肢、候補ABCDXの中から選びましょう。よそ見はしない。もう迷わない。あれ、でもブラはこれで……?おだまりなさい。アミダでいいから早くしなさい、翠。あたしの頭にそんな御神託が下ります。
 パンパン。
 ちょっと洒落にならない遅れになりつつありました。花火大会の開始は19:00です。待ち合わせは中央駅改札に18:30。現在時刻不明。あたしは頬を叩いて気合を入れ直します。

「ふむ……」

 五択に絞られたのですから消去法で削っていきましょう。まずは候補X。キミです。トップスはフロントにレースアップリボンの付いた黄色いキャミソール。ボトムスは暗めのデニム地タイトスカート。あたしの普段着です。動きやすいしかわいいしお気に入りの服と言えます。この夏はタンスに落ち着く暇もなく洗濯籠とあたしの身体を行き来してくれています。ただそれだけに、ううん、ここにも惰性で並べてしまった感は拭えません。折角のお祭りにいつも通りではどうにも勿体無い気がします。わくわくするこの気持ちに嘘を吐きたくないような、ちょっぴり冒険したいような。でも、アクセントにフリンジのショートブーツを合わせてみたんです。お隣のお姉さんがくれたブーツです。あたしの足にぴったりでいつか履いてやろう履いてやろうと思っていたブーツです。靴が違うということは普段と同じでないワケですから、ちょっとした冒険と言えないこともありません。そもそもあたしの一番のお気に入りの服はこれなんです。ならば寧ろこういう晴れ舞台にこそ着ていくべきなのでは。けど翠またその服なのぉーなんて言われたら絶対ヘコみます。断然ヘコみます。多分泣きます。心に嵐が吹き荒れます。あたしのハートはズタズタです。五月の桜になります。終戦直後のトウキョウ・シティになります。
 これが断腸の思いというヤツなのでしょうか。あたしはそっと、黄色いキャミソールを横に除けました。分かってください。貴方を想えばこそなんです。お気に入りの貴方を死地に送り込むわけにはいかないのです……。

「うーん……」

 それでも候補はまだABCDの四着が残っていました。これをあたしはABとCDの組に分けてみます。
 ABに特に関連性は無いんですが、先ほどのちょい透けレースタンクを含む候補CDの組は、ちょっと露出が……多いと言えます。透けすぎあるいは見えすぎです。特に候補Cのボリュームチュニックなどは恥ずかしくて家の中でだけ着ているものでした。
 どエロいわけでは無いのです。むしろフェミ系統のかわいいデザインなんです。萌葱色の綿生地は派手すぎず地味すぎずごたごたした柄の付かない思い切った無地が淡い色合いをより引き立てます。裾は二層になっていて外側のシフォン地がゆるやかに広がりふんわりしたシルエットを作っています。直訳すると胸が視覚上ちょっぴり大きくなります。腰元にぐるりと入った色とりどりの刺繍はこうして見ても異彩を放っており、ただ者じゃないぞというオーラを感じます。そしてその下にショーパンを合わせればどういった効果に依るものか脚がスッと長く見えてしまいます。何の魔法かあたしの脚がシュっと、まるでリカちんみたいに……。ちょっと言いすぎました。とにかく。あたしはこれを着て家の中でくるくる回ってニヤニヤするのが大好きなのでした。およそ週一ペースで回っています。洗面所に玄関自室と鏡から鏡へくるくる回っています。家族の目などこのウキウキに比べればなにするものぞ!という感じです。
 でもそれは家の中での話であって、外に出るとなると大きな問題が発生するのでした。大きな問題。思うに死活問題と言ってよいかもしれません。あたしにとってこのチュニックは……エッチっぽい、のカテゴリに属する衣服なのです。そう、問題は襟ぐりでした。ベアトップとかチューブトップつまり胸から上は裸の服、ウエディングドレスを思い浮かべてもらえればいいと思います。あるいは、お風呂あがりに身体に巻いたバスタオル。申し訳程度に伸びる細っこい肩紐が無かったら正しくそれなんです。透けてないだけで何コレ、ネグリジェ……?みたいな。ラフなコットン地なので安心感はあるもののこの大胆に開いたスクエアネックが羞恥心という名の大きな壁としてあたしの前に立ちはだかっているのでした。

「ぐうう……」

 着たい。正直これを着たいのです。他の候補を立てて誤魔化し誤魔化し来ましたがあたしの心にはいつもこの子が棲んでいたのです。サマーチュニックを夏に着ずしていつ着るというのか。あと一年待てというのか。それで何か変わるのか。理性が囁きます。今日は花火大会。開始時刻は19:00。即ち夜です。闇が総てを覆う晩、炯々たる月の光は大抵のものを美しく映します。奇しくも今宵は上弦の月。……普通です。半月です。ともかく。夜だし多少の露出くらい目立たないのではと期待出来ます。さらに花火大会ですからみんな空を見上げることに夢中です。あたしの服装なんて誰も気にしていないでしょう。それは寂しい。頑張ったんだからちょっとは見て欲しいですがともかく。道行く人々に凝視されるような穴があったら入りたい事態は避けられるものと期待できます。さらにお祭りで誰もが着飾ってくることでしょう。浴衣にはっぴにサマードレス。可憐に着こなし現れる女性もいるでしょうし中には、あたしみたいにちょっと頑張ってみる人もいることでしょう。皆がみんなちょっぴり背伸びをするのです。それなら、他人の背伸びにも優しい眼差しを向けてくれるのでは。痛みを知って人は優しくなれるのです。何しろ今のあたしがそんな気持ちです。
 そして極めつけに、今日はあたしを含め女の子三人での待ち合わせでした。つまり知り合いの男子にじろじろ見られるような精神的惨劇は起こりえないと言うことです。男子に偶然出くわしたとしてもスッと逃げてしまえばいいのです。ならば。そう、ならば……多少エッチっぽくてもよいのでは?よいのではないでしょうか。
 その時、あたしの思考を切り裂いてぽーんと時報が鳴りました。ひとつ、ふたつ、……むっつ。六つ。
 …………。
 うあああ!


○中央駅


 改札を抜けると目に飛び込んできたものは一面の鰯雲でした。西の空は鮮やかな青紫に染まっています。それを背にして泳ぐ雲の群れは油絵みたいにくっきり色づいていて、まるでこちらに泳いでこんばかりです。あたしは立ち止まり日の沈みかけた空を見つめていました。魚群が南へ向かって白から灰色紺濃紺とグラデーションしていくのを視線で追っていました。棒立ちのあたしの横を沢山の人が通り抜けていきます。人々が沈む夕日の反対側へと押し合いへしあい流れてゆく土曜日は目下帰宅ラッシュの時間帯。しかし今日に限っては、皆がみんな我が家でない方向目指して歩いているのでした。今年も、納涼花火大会は始まろうとしています。
 通行止めの車道に飛び出てあたしはなんとか人混みを外れました。知った顔を求めて辺りを見回します。駅舎の前をぐるりと一周するバスロータリー。その中心に申し訳程度につくられた広場と時計台。どちらも普段なら閑散とし辛うじてお年寄りの社交場の役割だけを果たしていますが今は花火大会に向かう人の波にすっかり覆いつくされていました。道の脇ではあたしと同じく待ち合わせであろう人達が話し込んだり携帯に大声で怒鳴ったり忙しそうにしています。あたしもと携帯を取り出すと、二件の着信が入っていました。20分前にミッチから、5分前にもミッチから。そしてマナーモードを解除しようと*キーを長押ししたところで三度目の着信が入ってきます。
 電話の向こうから「翠ぃ〜」と呼びかけてくるミッチの声はなんだかすでにへろへろです。人混みに酔ってしまったらしくとりあえず安全な場所に避難しているとのこと。あたし以外はもう揃っているとのこと。避難場所は通りに面したペットショップ。ただし動物がやたら興奮している。翠遅いよ何やってんの。あたしは携帯電話に平謝りです。すいませんすいませんと下ろしていた顔をあげれば『PETHOUSE HIGA』の看板がすぐ右手に見つかります。

「おまたせ!」

 お店の自動ドアをくぐり、シュタッと右手を挙げて挨拶すると「待ったよ!」「待った!」「いらっしゃいませ!」と勢いよく返事がかえってきました。さらに壁にずらりと並んだケージからはキャンキャン吠える子犬の声。でもレスポンスの早さと多さにえへへぇなどと嬉しくなっている場合ではありません。こっちを睨んだミッチがアリクイみたいな歩き方でずんずん近づいて来ていました。そのままあたしの胸にドスっと頭をぶつけた彼女に、まだ繋がったままの携帯から「こらっ!」と一喝されてしまいます。

「翠。現在時刻は?」
「じゅ、18時45ふんであります」
「待ち合わせは?」
「18時30ふんであります!」
「遅れた理由は?」
「で、電車が爆発して……」
「すぐバレる嘘を吐かない」

 ま、いいや。どこか面白がっているような口ぶりでミッチはすぐに解放してくれました。すかさずあたしは話を違う方向に持って行きます。

「おまちゃんそれ浴衣、本物!?」

 今宵の連れのもう一人、真央ちゃんはケージの前にかがみ込んで子犬に指を食ませていました。
 真央ちゃんのあだ名は逆からよんでおまちゃんです。おま、おまちょっと来て、などとぞんざいに呼ぶと露骨に嫌がります。このあだ名自体あまり気に入っていないそうなのですが(本人曰く、「響きが卑猥」)不幸にも定着してしまっています。主に本人のリアクションのせいなのでそこはなんとも言えないところです。今やもう見られませんけれど、「おま呼ばわりするな!」と小さい身体を震わせて人差し指をビシッ!と突きつけ憤慨する様は身悶えするくらいキュートでした。
 その真央ちゃんは今日この場で唯ひとりの浴衣姿です。暗めの紫地全体に”キャピキャピ”した牡丹桜が踊っています。全体的に濃い味であたしが着たら翠それ、ケバい……と言われてしまうようなシロモノ。これでピンクのへこ帯リボンだったら完璧にキャバ嬢スタイルです。ところが真央ちゃんにかかるとキツめの柄もちっちゃい子が背伸びをしているような微笑ましさにたちまち変わってしまいます。
 一点見過ごせないのがその帯の結びでした。何と呼ぶのか分かりませんが四角い、あたしでも知っているような文庫結びや片蝶と違う四角いそのシルエットはそっけない白一色の生地と合わせて古き良きなおざりの美学を感じさせます。かと思えば表面にくまなく入った銀糸の駒取りは室内灯の明かりを受けて高級そうにまたたきます。よく見ても何の模様か判然とせずしかし綺麗であることだけははっきり分かる日本刺繍にホンモノのニオイを嗅ぎとり、あたしは思いました。

「これ仁侠映画の姐さんがしてそう……」
「翠それ、褒めてる?」
「もちろん、こんの浴衣美人め。おまちゃんお願い、後ろ向いて。それから悩ましげに振り向いて!」
「遅れてきてこれだよ」
「そこをなんとかっ。このとおり」
「翠ってたまに意味分からないよ?拝まないでよ……。しょーがないなぁ」
「出来れば後ろ髪持ち上げて、アップでまとめる感じで」
「なんなのそれ……。こう?」
「ああ、あはぁ、うなじが、うなじがこぼれる……」
「おしまい!」
「ええーー」
「なんか首筋がぞわぞわ!ってしたもん。良からぬいとをかくしているでしょ」
「写真撮るからもう一回っ」
「やっ」
「あと十秒だけ」
「だめ」
「そこをなんとか、この通りっ」
「それさっき使った」
「えー。おまちゃんの後れ毛、絵に描いたみたいに完璧なんだけどなぁ」
「……やっぱ翠も髪、上げたほうがいいと思う?」
「思う、おもう。おもちゃんの後れ毛完璧だと思う」
「そーいうマニアックなのは置いといて欲しいんだけど。お母さんも上げた方がいいって言うんだよ」
「でもそのままが良いんでしょ?」
「うーん、どうだろ。一応髪留めは幾つか持ってきたんだ、この蝶のやつと、和柄のと……」

 そう言って真央ちゃんはごそごそポーチの中身を漁り始めます。勢いよく腕を動かすせいか左前の共衿が弛んで浮き上がり胸元がなんだか隙だらけです。さらに俯けた頭の向こうで大きく抜けた衣紋がぴょこぴょこ跳ね、そこから白い首筋が覗きます。ごくり。なんかエッチかもしれません。いけない、いけない。友達によこしまな感情を抱いてはいけない。あたしは早朝のゲレンデみたいに滑らかで柔らかそうで触ればしっとり水気を感じるに違いない……彼女の首筋から急いで視線を剥がしました。
 さて、と改めて見ても真央ちゃんの帯は立派の一言です。享和ウン年創業の呉服屋さんが仕入れたりするものなのでしょう。おもて一面に施された銀糸の日本刺繍はもしかしなくてもシルクです。次々に枝分かれしては合流する文様を追っているとなんとなく心が落ち着きます。あたしは巻いてポンのワンタッチ帯しかつけた経験がないので分かりませんが本式の帯はやはり締まるのでしょうか、重いのでしょうか、くるくるしたり出来るのでしょうか。そこでふいに衝動に駆られ、てい!とお腹にパンチしてみるとしっかり帯板の硬い感触がありました。

「翠もそれするの……」

 と麻里ちゃんはゲンナリした反応。既に誰かにやられていたみたいです。

「ミッチ?」
「お母さんも。翠で三人目」
「やりたくなるよねえ、て言うかそのためにあるんじゃないの帯板って。ホラ、お腹に雑誌仕込むノリで。ぐさー!効かぬ!みたいな」

 などとミッチはテキトウなことを言い出し、戦う予定ないから、と真央ちゃんに面倒臭そうにあしらわれました。
 そのミッチは何かに気付いたようにあたしの顔を見て、視線をつつつと肩、胸、お腹から脚……と滑らせてきます。試しに腰に手を当て右足をぐいと前に出してポージング。ミッチの視線がまたあたしの顔に戻ってきてにっこり笑って、

「二点」
「えええー!」

 ちょっと泣きそうになるあたし。

「二点満点だよ」

 と言って審査員が抱きついて来て、

「ホント……?」

 手玉にとられるあたし。そのままミッチは「エロっちいなこのやろう」などと耳元で囁きながらあたしの肩紐をずらしてきます。胸部で締まっているので肩紐は飾りみたいなものですが、でも肩から外されるとさすがに、おい、ちょ……スパン。真央ちゃんが痴漢の頭を叩いて止めてくれました。

「おま、おま何すんだよぉ」
「おまってゆーな」
「おまちゃんありがと」

 ミッチは髪に両手を当てて急にわたわたしだします。決心したようにシュバババ、と手櫛を入れるとたちまち後頭部に戻るふくらみ。彼女の肩口まで伸びる栗色の髪は耳元辺りからくりんとカールしています。軽くワックスを付けているのか質感のしっとりした毛先が室内灯に照らされつやつやと輝きます。自動ドアに映して、よしとばかりに頷くミッチ。

「いやキミさっき頭突きしてきたじゃん」
「前髪はいいんだよ地毛だから」

 言いながら今度は指でくるくると巻きを調節し始めます。あたしの知っている彼女、夏休みに入る前のミッチはハリガネ型の直毛でした。

「パーマ当てたの?アイロン?」
「恥ずかしながら当ててまいりました……」
「ふむ」

 今度はあたしが腕を組み、プロデューサー風にためつすがめつ審査を始めます。「そこで回って」とやはりプロデューサー風に手で合図すると素直にミッチは一回転。風を受けてふんわり膨らんだ巻き毛は回転を止めるとまたゆっくり沈んでいきます。あたしは下唇に指を当ててUh-huhなどと呟きながらそれを見届けると、モデルを睨み、グッとサムズアップポーズを作りました。
 にい、と笑ったミッチが真央ちゃんを振り返ります。
 そう言えば真央ちゃんは前から同じよーな弛めのパーマで長さは両肩に掛かるくらいで、

「あーー!!お揃いじゃん!!」
「えへぇ、美容院紹介して貰っちゃった」
「えへへ、紹介しちゃった」
「……何仲良くしてるんだよぉ、二人して」

 ねー!とよく分からない相槌を交わし合う二人は並ぶと確かに髪型がそっくりで姉妹のようにも見えました。するとひしと抱き合っているこの図は美しい姉妹愛なんでしょう。でもすぐに姉役の方がエキサイトし始め反対に妹は鬱陶しげな表情に変わります。真央ちゃんはひっつくミッチを無理やり押しのけるとこっちに逃げてきました。さもありなん、とあたしは妹御の左に寄った浴衣を直していきます。
 それから、「そう言えばさ」とミッチは思い出したようにあたしに訊いてきました。

「瀬川ちゃんは結局来れないの?」
「リカちんはね、やっぱりバイト休めなくって。めぼしい人には当たってみたんだけど、あたしの政治力も及ばず……。花火大会の日?シフト代わってくれ?なに言ってんの翠。これだよ。ウチは女の子ばっかだしねぇ……。そりゃ花火観に行くよ。バイトじゃ夏の思い出になんないもん。シフト表出したとき店長やたらニコニコしてたの〜ってちょっとリカちんその時点で気付こうよぉ、もぉ……」
「前もって言ってなかったの?」
「言った、言ったよ。でも確率的に大丈夫な気がしたのよ!って。そんな計算するよりカレンダー見れば一発じゃんかぁ。花火だよ、花火。屋台だよ、や・た・い!り・ん・ご・あ・め!もうあたしは怒りをぶつけたね」
「何に」
「えー……サンドバッグ的な……人に……?」

 それでリカちんは仕方ないとしましょう。今頃同じ空の下ドーナツ屋のカウンターに閉じこもっているかと思うと諦めきれるものではないですがお給金を貰っている以上務めは果たさねばなりません。残念ですがそれで怒るというのも少し違います。ところが、ところがです。別段用事もない人が「めんどいからいーや」って!バイトは無い。宿題しない。部活に全然復帰しない。いっつも暇だーって言って駄菓子屋でアイス舐めてるようなオトコが「翠あのな、行くのめんどい」ってそれはないんじゃないかなって思うんです。なるほど、皆がみんな花火好きとは限りません。首が痛い。人混みは疲れる。そういう考え方もあるでしょう。でもここに花火が好きな友達が居て!一緒に行こうって誘ってるんだから!暇なら嫌々でも付き合うくらいはして良いんじゃないでしょうか。それが言うに事欠いて「めんどいからいーや」って!ふん……!ふん……!あたしは想像上のサンドバッグに右フックをねじ込みました。
 確かに、リカちんは来れなさそうだしメンバーは女の子ばっかり三人だしで気後れする気持ちも分かります。恐らくそう言うめんどい、なのでしょう。知らない女の子を前にすると途端に無口になる桜井です。でも武田くんや村井くんを誘ったり妹ちゃんを連れてきたりこの機会にクラスメイトと打ち解けてみたり手段は色々あったハズなのです。でもあたしが何を言っても桜井はめんどいの一言で片付けてしまって今頃リビングに寝転がってテレビでも見ていてお腹をたまに掻いているのですこの同じ空の下で。じゃあイカ焼き買ってきて、ってイカ焼き食べたいなら来ればいいだけの話でふん……!このやろ……!ふん……!

「でもちょうど良かったかもね」

 ミッチのそんな言葉が、あたしを現実に連れ戻しました。

「ちょうど?」
「だってホラ、図らずもぴったり3-3だし。あ、来た来た」


駅前通


 十分後。川辺に向かう物見の客の流れにあたしたちは加わっていました。こじんまりとした商店の並ぶこの駅前通りを抜けてしまえばすぐに川に沿って伸びる二車線の県道に行き当たります。そこからは橋を渡って対岸の打ち上げ会場に行くもよしこちら側で座りよい草地を探すもよし。予定より多少遅れたこともあり落ち着く暇も無く今年の花火は始まるでしょう。ただその前に、あたしにはぜひ検めるべき事柄がありました。ねえミッチ、とあたしは穏やかに尋ねます。

「一体いつ、あたしたちは六人連れになったのかな?」
「さ、さっき……」
「そうじゃなくて」
「これは哲学的な問題だね」
「ただの算数です。今日はあたしと、おまちゃんと、ミッチと、リカちんと、四人で観に行こうって話だったよねえ」
「でも瀬川ちゃん無理そうだって言うし」
「四ひく一で三人じゃん」
「翠が桜井君連れてくるかもって言うし」
「三たす一で四人じゃん」
「だったら私も誰か呼んでいいかなって。ほら、せっかくだし沢山いたほうが楽しいじゃない」
「あのねミッチ、それ自体はいいんだよ。確かに、三人に減ったまま観に行くっていうのもちょっと寂しいかもしれない」
「だよねっ、そうだよねえ!ナイス気配り私!」
「足りてない、足りてないから。ホラここに、ここにさぁ、事前に連絡受けてない人がいるんだけど」

 サ、サプライズを狙って……、などと半笑いでのたまうミッチをあたしはムスッと睨みつけてやります。花火客向けに開放された車道を前後に広がって、あたしたちは商店街の東へ進んでいました。前方には単騎の真央ちゃんと男子陣。後方にミッチを引きずり歩道まで寄ったあたし。男子がこちらをちらちらと振り返って気にしてくれています。そう、彼らは何も悪くないんです。

「心配かけちゃってるかな……」

 ちょっと待ってね、と手を振って罪無き男子に応えます。その隙にあたしの脇からそそくさ逃げ出そうとする主犯をガシッと捕獲。

「キミねえ……」
「みどりぃ、イヤなの……?」
「嫌って言うのとはちょっと、違うけどさ」

 ごめんね?とあたしを覗き込んでくる顔を見れば怒る気こそ失せてしまいますが、でも釈然としないものは残ります。事前に一言くらいあってもよかったんじゃないかなぁ……。て言うか、てゆうか……!
 両腕を胸の前で組み思うことは、その程度では護りきれないこのむき出しの鎖骨のことでした。オレンジの街灯に照らされてチュニックの萌葱色は暖かみを増し、腰元でふわっと拡がる長めの裾から脚がのぞけばそれはあたしの身体じゃないみたいにスラッと伸びて見えます。うーん、回りたい。早々に照明の落とされたブティックのショーウインドーに自分を映しそんな事を思います。しかし、しかしです。なんなの、なんなんですかこのペランペランの服は、かわいいけど!
 知り合いの男子にじろじろ見られるような精神的惨劇は起こりえ……る。男子に偶然出くわしたとしてもスッと逃げてしまえ……ない。ならば。そう、ならば……多少エッチっぽくてもよいのでは?よくない!うあああバカ、バカ!顔がかっかと火照ってくるのが自分で分かります。

「〜〜〜〜〜!!」

 襟ぐり、というかもはや胸ぐり、を引っ張って少しでも上に持ってくるのが今のあたしにとって命より大切な仕事でした。そんなあたしの肩(むきだし)を叩いて、ミッチが話しかけてきます。この忙しい時に、非常に迷惑です。彼女は真央ちゃんの方を指差しニヤリと笑います。

「翠、ほら翠、あそこ……!」

 その押し殺しきれていないひそひそ声に顔を上げると前方の四人はいつの間にやら二人づつの小集団に分裂していました。さっきまで男子三人から少し距離を取って歩いていた麻里ちゃんは、今は背の高い男の子と一緒です。あたしは暗い中で目を凝らし、

「あたしのおまちゃんに魔の手が……」
「逆だよ!おまがさぁ、もうアガっちゃって」

 後ろから見ると確かに真央ちゃんはひょこひょこおかしな具合に動いていました。これはおそらく歩き方を忘れています。さらに問題は挙動不審だけに留まっておらず、

『まままま、ま前原くんは今日はなにしてたぉ?の!のっ!』
『へぇ〜、そうだんだ!わた、わたしはねっ』
『お母だんがね、おかっ、おかっ……』

 …………。

「おまちゃん噛み噛みじゃん」
「手に汗握るよねぇ……。ほら、翠、どうよ。素晴らしい気配りでしょ私」
「取り合えずミッチの魂胆は分かったけど……」
「なんでそこでテンション下がるわけ」
「ああ、おまちゃん、かわいそうに。あんなベローシファカみたいな歩き方して……」
「どんなよ」
「あんなだよ。おまちゃん知ってたの?彼が来るって」
「もちろん」
「うん?……あー、知ってたからこうなってるのか」
「無断で男子呼ぶなんて、そんなことしたら今頃私はどうなっていたか」
「怒っていいかな」
「翠は別に気にしないでしょ。誰が来ようが」
「してる。してる」
「程度の問題だよ。ま、アガリ症のおまもあたしの入念なる手回しの結果そのなに、ベローシファカ?みたいな歩き方くらいで済んでるわけ。それどんなよ」
「だからあんなんだって」
「あんな歩き方する生物いるわけ無いでしょう。膝関節に喧嘩売ってる」
「……それで浴衣も気合入ってたんだね」
「そう、そう。着付けバッチシ80分。今日のおまは9時A.M.から分刻みのスケジュールで動いてるからね」
「かわいいなおまちゃん……」
『おまってゆーな!』

 と真央ちゃんは振り返ってこっちに叫んですぐ前を向きます。ちらりと見えたその顔は首元から紅く染まっていました。
 そうして、並んで歩く男女の背中をあたしたちが目を細め見守っていると横から声を掛けられます。

「なあ、どうなんだ、あの二人」

 目が合ってウッス、と前腕をあげる男の子二人は細野くんと小沢くん。誰かさんの手業による今夜のドロナワ式道連れでした。あたしは苦笑いして応えます。

「おまちゃんが落ち着いたら、もしかするかもね。ひさしぶり」
「おう、久しぶり。……おまさんが?逆じゃねーの」
「うん?」
前原あいつ、さっきからテンパってるしなぁ」
「いや、だからテンパってるのはおまちゃんでしょ。挙動も呂律も怪しいなんてもんじゃないじゃん」
「それはそうなんだけど。実際、良い勝負じゃねーかな」
「勝ち負けで言うとおまちゃん途中棄権させたいくらいだけど」
「俺なら戦況を見守るね。似たもの同士ってことで」
「どこが……?」

 見たところ真央ちゃんの隣を行く彼の立ち居に乱れは感じられません。むしろ堂々としたものです。ゆったりした足の運びは明らかに歩幅の小さい真央ちゃんに合わせたものですし、激しく左右に揺れ動く彼女に当たらないよう付かず離れず距離を調節している様子も見受けられます。

「うーん?」
「分からない?よーく見てみ、背中」

 ふむ、とまた後姿を眺めているとその背中が街灯を通り過ぎる一瞬、あたしは嫌な発見をしてしまいました。街灯の明かりに照らされたTシャツは不自然に身体に張り付いていて、皺がびっちり寄っています。薄いライムグリーンの生地はどこか黒ずんでいて、なにかそう、じっとりと湿っているような。

「もしかしてアレ、全部汗なの?そうだよね……」
「おお、気付いた」
「全面、色変わって、濃いよ、ちょっと濃い、くっ……、むふっ……、ちょっとぉ、あははは」
「翠、声デカい、」
「ふふっ……、っ、んふっ、あはは」
「おい、笑ってやるなよ、」
「なるほどね……。すごいなぁ、冷静だ。冷静にテンパってるんだっ」
「そうなんだよ、静かに混乱してる、あいつ、つふっ、無理だ、あはは」

 あんまり茶化すのも悪いので、あたしは弛んだ頬をきゅっと引き締めます。隣を見ると下唇を噛んだ細野くんが分かってる、と言うように手をひらひらさせてきました。
 ミッチにお呼ばれした男子諸氏は三人ともバスケ部に所属しています。前を行く汗だくの彼についてはクラスが違うため詳しく知りませんが残りの二人はあたしと同じクラスです。特にこの細野くんは席順があたしの一つ前で、よく振り返っては変な顔を作ってあたしを笑わせようとしてくる男の子でした。つんつん頭がトレードマークです。ただでさえ身長が高いと言うのにヘアスプレーで刺さるくらい尖らせたとんがり頭は授業中効率的にあたしの視界を塞ぎます。しかもスクリーンプレーだけでなく揺れ動いたり風になびいたり意表を突く動きをみせてくるのです。学期中毎日のようにあたしの集中力を奪い惑わせ眠気を呼び起こすそれは名前を付けるならばそう、五時間目のマモノでした。
 ところが彼は今すっかり前髪を下ろし、ナチュラルなウルフヘアに変貌していました。セットはしているのでしょうが毛先をかっちりと作っていないので今朝起きたらそうなっていたような自然な印象です。つむじのあたりを頂点として次々覆い被さる毛束はひとつひとつがすごく硬そうです。日に焼けた髪が赤茶っぽく光り、さらさらのもみあげが風にそよぎます。アクセントに右耳周辺にはピンクのメッシュを入れています。ファッション誌で見るようなヘアスタイルですがホスト式に後髪を盛ったりしていない辺りは清潔感があってなかなかの好青年ぶり。髪型が変わるだけでだいぶ印象が違います。それでもなにかこだわりがあるのか頭の上の方はちょっぴりツンツンしていました。
 そしてもう一人のクラスメイト小沢くんはと言うと、今はミッチと何事か話し込んでいました。とりあえず挨拶しておこう、そう思って後ろを振り向くと、

『きゃー!硬い、かたいねっ!』

 あたしと話している時よりオクターブ高くなったミッチの声が届きます。わいのわいの何をしているかと思えば彼女は両手でペタペタと小沢くんの二の腕辺りをさすっていました。触られる方は若干の困り顔を浮かべながら大人しく彼女の要望に応えています。いま、グッと力を込めました。そして再びの「かたいねっ!」。その光景に学校の休み時間ミッチが強弁していた仮説をあたしは思い出します。曰く、ボディタッチは恋の導火線。人間は元はサルだったからグルーミング行動は本能をなんたらかんたら……。
 そこに割って入る勇気はあたしにはありませんでした。脱力しながら前を向き直します。数メートル先で細野くんがこちらを振り返り来るのを待ってくれています。あたしは数歩を小走りにかけて、その隣に並びました。

『わっ、ホント?いいのっ!?』

 後ろでミッチがまた歓声をあげているのが聞こえます。それを耳に、どこかしっくりこない感覚を覚えつつあたしは歩調を速めました。横を歩く細野くんのペースに合わるために、それとまたミッチの邪魔をしないように。
 駅を離れるにつれ人の密度は徐々に小さくなり今では夜風の涼しさが人混みの息苦しさに勝って肌に届きます。同じ方向を目指しぞろぞろと進む群れは混ざると妙に確かな連帯感を覚えます。辺りを充たす話し声はどこにも高揚の色が感じられます。その中であたしは少しだけ、しっくりこない気持ちでいました。違和感の正体は実に他愛も無い物です。ただ、あたしにはちょっと苦手の分野。だから別に変なことではないのかもしれません。

「暑っついねぇ、きょうも……」

 あたしの知る限りですが、ミッチはこの細野くんを好いていたような?
 頭半個分高い彼の横顔をなんとなしに見つめます。涼しい顔して歩いているこの人はそう言えばミッチのお誘いで今日この場にいるのでした。ところが彼女は小沢くんの二の腕をぺちぺち叩いているわけで。開始十秒であたしの推理は迷宮入りしそうになります。
 まず最初に思い浮かんだのは、自分が知らないだけでミッチと細野くんの間には何かあったのではという可能性でした。それだと結果はあんまり想像したくないなぁ、こうして別々に歩いてるんだもんなぁ。このアイデアは却下です。と言うのも仮に、とあたしは考えてみます。もしあたしが誰かに告白されたとしたら、そして良い返事を返さなかったとしたら、その人と遊びに行ける気はしません。ましてや花火大会など、ましてや平然とお話などしていられません。それはもう実感を伴った結論です。
 それであたしは気がつきました。恐らく告白をしてはいないのでしょう。思うに、ミッチは恋多き女と言えます。顔の整った先輩と廊下ですれ違えばきゃあきゃあ言ってはしゃぐ彼女のことですから、次の恋を見つけるのも上手です。想いを伝えるその前に別のよい人を見つけたのでしょう。そしてあたしの隣を行く彼は何も知らされぬまま居るのです。そうだといいなと思います。それならこのまるで平気そうな顔の説明がつきますし、何しろ電話がありません。ミッチは深夜に電話をかけてくるタイプです。泣きながら。
 でもこの推理で当たっているとしたら、若干気の毒のようにも思いました。火が付く以前に忘れられてしまった何だったか、恋の導火線?自分で経験こそありませんがあたしは知っています。こと男女恋愛に関しては、しない後悔よりした後悔がいいんです。一度や二度は転んでみたらいいんです。漫画は色々なことを教えてくれます。だからやっぱりこうして二人別々に歩いている状況は、少し残念な気がしていました。フィクションだったら必ず上手くいくのにと。あたしは今ミッチと一緒にいる小沢くんとあまり話したことがありません。一方細野くんの方は席が近いこともあり、まあまあ気心が知れています。そのため個人的には、二人っきりの気まずい状況にならず助かっているんですが。いや、それはさすがに無理がありました。
 こうして考えていてもあたしの想像はちっとも具体性を帯びずにいて、悪い結果を想像するのが面白くなくて、ミッチがあたしに電話を掛けてこないからにはまだ結果は出ていなくて、つまり……。そこで行き止まりです。ちょっぴり嫌になります。上手くいかない可能性のあるものなんてちっとも楽しく眺めていられません。ましてや当事者になったら、と考えるとげんなりします。恋愛は現実世界に持ち込まないで欲しいって思います。絵に描いた餅を眺めるだけであたしは満足していられます。
 そんなことをぼんやり考えていると、当の細野くんが話しかけてきました。

「翠、どうした。俺の顔なんか見て」
「えっ?ううん、別に」
「なに、惚れちゃった?」
「てません」
「冷たい……」

 彼はそう言って大仰にショックを受けたリアクションをし、

「もうちょっと間を空けてくれても良いんじゃねーの。思いやりが足りない」
「必要ないでしょ。誤解されたくないし」
「誰に」
「さぁ……」
「そうか。そうだよな。翠はもう彼氏いるもんな」
「ふぇ?なにそれ。初耳なんだけど」
「ふーん」

 あたしは苦手だっていうのに、みんな顔を合わせれば惚れた腫れたの話ばっかりです。それで?翠は誰が好きなの?またまたぁ、照れちゃって。嘘だね、そんなハズない。私は言ったんだから翠も言わないと。タメ?先輩?大学生?家庭教師?メガネ?裸眼?細身?分かった、言わない。誰にも言わないから、ね?なあ、とりあえず付き合ってみるか。
 ちょっと気を抜くだけで危うく洗脳されてしまいそうになります。一生懸命頭の中をかき回し、あたしは何とか違う話題を引っ張り出しました。

「直人、ええと、そうだ。イメチェンした……?」

 シトラス系の整髪料の匂いが風に乗ってここまで届きます。細野くんは「あ、気付いた?」とちょっと嬉しそう。右耳の上に入るピンクのメッシュを指でつまんで彼は表情豊かに教えてくれます。美容師さんに写真を撮られたこと。スナップを目の前でお店に飾られてそれで料金がタダになったこと。顧問の先生に説教されたこと……。ちらりと見えた左耳には控えめな大きさのピアスも光っていました。
 どれくらいの時間そうしていたでしょうか。気が付けば花火会場の川原はもう目の前に迫っていました。

「〜〜〜〜!!」

 それでもう一瞬で、落ち込みかけた気持ちは火星まで吹き飛んで消えました。喧騒と屋台の明かりが近づきます。それに釣られるようあたしの全身はむずむずと疼きだします。信号待ちすらもどこかじれったく、そわそわして今すぐ駆け出したい気持ちで胸が一杯になってそれを我慢するのに精一杯です。夜風に鼻をすんすんさせては、イカ焼きの匂いはどこか。人形焼きの匂いはどこか。怪しげな露天のスピードくじの匂いはどこか。初めはやきそばか黒豚焼きか……。
 県道を渡る信号がようやく青に変わります。それと同時にワッと歓声が上がって、夜空に一筋の光が昇り、

「あっ、始まったよ!!」

 ミッチが笑いながらあたしたちを追い越して行きます。
 そうして、彼女がすれ違いざま囁いてきた言葉はゆっくりと夏の夜に染みわたっていきました。

「今年の夏は一度しか来ないんだよ、翠」


○河川敷


「おーい、シートこんなもんでいいか?」
「うん、いい感じ。石、はないからバッグこれ……じゃ足りないか。おまちゃん何か持ってない?できれば文鎮」
「ないよそんなのぉ……。えっとねぇ……」
「何もないんだったら取り敢えず食い物で押さえ、っておお、角に座ればいいじゃん」
「キミたちそんなことより花火を見らんね。ねー?翠」
「大阪焼きは食の花火と言ってもいい」
「ソースでどろどろの汚い花火だ」
「違う。それは夜空で、箸を入れるとキャベツ、油かす、卵に魚介など多種多様の……」
「やきそばいく人!」
「あー!紅ショウガ無い!!」
「マジで?え、ウソだろ……」
「桜エビは入ってるよ?」
「お前か、原価を削ったのはお前か……!」

 目に入った出店全てで食べ物を買いこみ、花火にいちいち評定を下しながら歩くこと暫く。河川敷に空いている場所を見つけてビニールシートを敷いてはタコ焼きケバブジャンボフランク。そんな風にみんなで騒いでいたのも一瞬でした。声を張るのも結構体力を使います。花火は背景にすると全く飽きが来ませんがじっくり眺めて語ろうとすればなんだか違いが消えていきます。炭水化物ばっかり食べたせいでしょうか。お腹が急に膨れて、とろんと心地よい眠気にあたしは襲われていました。それも襲うと言うよりアウディで迎えに来てくれるとゆうような感じです。シートに下ろした腰がそこで根を張ったかのように動きません。動かす気にもなりません……。
 夏の夜風に火薬の匂いがすうっと肌を撫ぜ鼻腔をくすぐります。触っていると安心できる毛布、しゃぶっても良い親指、しがみつけるスカート……と言ったような小さい頃の記憶に重なる心地よさ、気だるさ、安心感。どれもこれもきっと炭水化物のおかげです。膨らんだお腹をさすりながら、私腹を肥やすとはこういうことなんだろうかなどと思います。この場の全員が全員私腹を肥やしたので文句を言う人はどこにもいません。ただしあたしのダイエット中枢を除く。今はみんな思い思いの場所で、思い思いの相手とまったりした時間を過ごしていました。
 ミッチと小沢くんは首が疲れたのかシートから少し離れた傾斜地に寝転がって二人花火を見ています。真央ちゃんと前原くんはあたしの背中側で携帯電話を覗き込みなにか難しい話をしているようです。そしてあたしはビニールシートの重しと化しています。

「翠、起きてるかぁ」

 と、隣に寝転がった細野くんが話しかけてきました。あたしは口をもごもごさせ言葉にならない音で応えます。これでも気だるさと格闘した結果でした。そのままうつらうつらしているともう一度「おーい。翠?」という呼びかけ。次いで半開きのあたしの口に何か高GI食品めいたものが侵入してきます。

「むー!んん、んん!ん……、んぐ、んぐ……、ほてと……?」
「せーかい。つか、寝るなよ」
「んぐんぐ……」
「ヒマになっちゃうだろーが」
「んぐんぐ……。ごめん、ごめん。ああ、お芋がおいしい……」
「まだあるぞ」
「ん。んー!見せないでっ」
「なんで?ウマいだろ」
「おいしいから食べちゃうじゃん。もーストップ。決めたの。あたしはもう金輪際カロリーを摂取いたしません」
「いやそれ死ぬから」
「いまお腹に入ってる分で一週間くらい生きられる気がする。無人島で暮らせるね。ああ、でも無人には耐えられない。なにかこう、ご飯はないけどご飯の温かみは感じられる国に行きたい」
ガンダーラ?」
「それ、良いかもしれない……」
「竜宮城」
「それはちょっと困る……」
「翠さぁ、今日は暴飲暴食するー!とか言ってたじゃん」
「えー、そんなこと言ってな、かったらこうなってないか……」
「酒池肉林ー!とも言ってた。そしてここには畑の肉、ポテトがある」
「そんな過去のあたしは丸めてゴミ箱にポイしてください」
「有言不実行だ。ダイエットに失敗するタイプだ」
「これダイエットじゃないもん。節食です」
「一緒じゃん、ていうか和訳じゃん」
「ダイエットの予備段階っていうのかな。転ばぬ先の杖みたいな」
「そんなんあるんだ」
「あるよ、晩御飯はまず最初にサラダを食べてお腹五分目くらいにしてからご飯に行きましょうとか、左手でお箸を使って食事に時間をかけましょうとか」
「飯食うのに時間かけてなにが嬉しいんだ?」
「ええとね、ゆっくりだと一口で噛む数が増えるでしょ。そうすると満腹中枢が刺激されてお腹一杯食べた気になるんだって」
「満腹中枢……。色々考えるもんだな」
「なんか説得力あるでしょ。カガク的な感じで。行儀悪い!ってお母さんに怒られて以来やってないんだけどね」
「でもそのうち左手で食うの巧くなるよな」
「器用になったと思えばいいんじゃない」
「……それもそうか。俺も、いつか太ったらそれでいこう」
「あー、あんまりお勧めは出来ないんだよなぁ」
「なんで、ギョーギの話?」
「それもあるけど。一番の理由はね、人間の心というものを考えてくれてないの。科学とは冷たい方法なんだね。よしやるぞっ!って左手でお箸を持つじゃない。そうするとキンピラが震えるお箸からポロポロ零れ落ちていくんだよ。口に届くのはごく僅かなの。先端についた出汁の味だけ分かるの。そのストレスでやけ食いしたくなるっていう」
「切ないなおい」
「甘ぁい誘いには裏があるからね。だから結局、節食が唯一にして絶対の方策なんだよ。明日のために!」
「応援してるぞ。ほら、ポテトやる」
「ありが……んっ!」
「大丈夫、ポテトは野菜だから。畑の肉だから」
「人を肥やして何が嬉しいんだよっ」
「太らせたいワケじゃなくて、単純にこの大量に余ったポテトをどうしようかと、あいつら食う気無さそうだし」
「ねえ、これは確かな筋からの情報なんだけど。畑のお肉は大豆だよ」
「え、マジで」
「そう、勘違い。ていうか見るからに炭水化物じゃん。まあでも、それはどうでもよくてだね。ちょっといいかな」
「おう?」
「衝撃的な話になるけど、落ち着いて聞いて欲しいの」
「お、おう……」
「これも確かな筋からの情報なんだけど……。男女で脂肪の真っ先に溜まる場所って違うんだって。女の子はお腹とか下半身につきやすくて、男の子はね、あろうことか胸から脂肪がつくんだって」
「誰が喜ぶんだよそれ……」
「しかも女の子は運動で落ちにくい皮下脂肪が真っ先につくんだよ。でも男の子は違くて、内臓脂肪なの。だからもうね、絶望的。男女は同じ生き物なんかじゃないの。自分がポテト食べる感覚であたしに勧めちゃいけないの」
「泣くなよ……」
「ああん、過去に戻ってやり直したい。このぽっこりしたお腹を見ても同じ仕打ちが出来るかと、もうこってり油を絞ってやりたい」
「翠、ぽっこりしてんの?」
「それがねぇ、はい?……え、うわっ、ちょっ、見ないで、見ないの!」
「いいじゃん。確認するだけ」
「してない。ぽっこりしてない!」
「自分で言っといてそれはどうかな」
「それは架空のお腹の話です」
「ふーん。なるほど」
「なにが。何が分かったの」
「反応が過剰なんだよな。……実はぽっこりしてるだろ」
「いいええ。してません」

 あたしと彼はポテトフライを挟んで睨み合い、両のまなこでしてるしてない、お前が食えいいやキミが食べなさいの押し問答を続けます。先に目を逸らした方が敗者となる。このライオン界の掟に従い彷徨える二頭の食肉目ネコ科として対峙します。
 そして一分後。

「腹のことはいいとして」

 とポテトをつまみながら細野くんは言います。

「こうして見ると翠ってスタイルいいよな」
「お腹の話じゃん。なに、バカにしてるの」
「違う、ちがう。真面目に。そーだ、ちょっと立ってみ。ほら、手掴まって」
「うん……?」
「翠そこ、ピーンと立って。何で腰引けてんの、ってああ。腹な……うわ、スマン。怒らない、怒らない」
「怒っていいかな」
「後でな。今は……ほら見ろ!おお、やっぱスタイルいいって、翠」
「スタイル、どうかなぁ。だったらいいなとは常々願ってるけど」
「脚はシュッとしてるし腹もなに、全然出てねーじゃん」
「それは洋服の魔法とゆうか……あ、あんまりジロジロ見ない!」
「見せるために着てんだろーが」
「キミにじゃないの」
「じゃあ誰だよ」
「そう言われると、うーん」
「お天道様なしな。友達家族親類自分なし」
「それ友達って直人も入ってるんじゃない」
「俺はほら、男友達」
「友達のサブジャンルじゃないの?それ」
「海水は水だけど飲めないみたいな」
「意味が解んない」
「いいよ解んなくて。ほら、翠そこにモデル立ちして」
「お断りします。こっち見ないでくれる」
「何で怒ってるんだよ」
「怒ってないけど」
「あ、照れてるんだ。翠、かわいい」
「あたし帰る」
「花火見ないでか?花火大会来たくせに」
「帰りながら見る」
「何でさっきからむこう向いてるんだよ。分かった、せめて空見ろよ、大きいのが来そうだぞ。菊かなそれとも牡丹かな。型物花火が来るのかな」
「喋りかた嘘臭いよ」
「おー揚がった。デケー……」
「あ、ほんとだ……。おっきい……」
「綺麗だな」
「うん……」
「フランスでは婦人と五分二人きりでいてキスをしないのは無礼にあたるわけだけど」
「なによ、唐突に」
「と言うのはキスしないのは彼女の魅力を認めないって暗に言っていることになるんだと。ところで今何分喋ってた?」
「ここはパリじゃないしあたしはフランス人じゃない」
「翠の唇柔らかそうだな、つやつやしてる……。グロス塗ってる?」
「え、リップだけ……でもこれはポテトの油です!!」
「……スマン」
「人の顔まじまじ見ないでよ」
「身体を見るなって言うから仕方なく。なあ翠、手握っていい?」
「やだ」
「面白いマジック見せてやろうと思ったのに」
「大人しく花火を見なさいよ」
「分かった。もう一回ここでピシッとポーズとってくれたら大人しくしよう」
「なんでケータイ構えるわけ」
「花火をバックに一枚」
「……あんまり見ないでよね」
「それは無理。おーし、翠、笑って……、よっしゃ」
「撮れた?ていうかなんで撮った」
「……これは奇跡の一枚ってやつだろ」
「む、失礼じゃないそれ……」
「題をつけるなら花火の妖精」
「一応、いちおう見せて」
「駄目。これはアイドル事務所に送る。翠は『友達が勝手に応募しちゃってぇ……』って言う練習しといた方がいい」
「馬鹿なこと言ってないでほら、あたしにも見せなさいっ」
「どーしようかな、届くかぁ、ほれ、ほれ」
「コラ、人で遊ぶな!」
「我ながら上手く撮れたと思うんだ。どう」
「あ……。うん。そうかも……」
「だろっ?」
「……ホントに奇跡の一枚だった、なにこれ、誰」
「翠だろ」
「にわかには信じがたい……」
「写真は真実の鏡と言って」
「ね、ね!これ送ってよ。あたしに」
「アドレス知らないぞ」
「えーとね、分かった、赤外線、手打ちでいっか。携帯ちょっと貸して?えへぇ、これリカちんが見たら絶対びっくりするんだ」
「使い方分かるか?」
「キャリア一緒だね。うん、大丈夫そう。どりゃー!」
「なにそれ」
「発破。携帯も喝入れると仕事するんだよ。箱入り娘だからね、甘やかされて育ってるの」
「64に息吹きかける感じ?」
「そう、そう。もうちょっと駆け引きみたいのがあるんだけど。頑張ったら充電してやろう……だが手間取ったら、あとは分かるな?みたいな」
「お前ひとり上手だな……」
「それすごい心外……。おっ、来た来た。ありがと、携帯」
「おう」
「うーん、あらためて見ても、これがあたし……。光の加減かなぁ」
「アドレス登録しとくな」
「うん……もしくは写真の精の仕業かもしれない」
「被写体がいいという可能性はねーの」
「その線は薄いね、残念ながら」
「翠って本っ当、自己評価低いよな」
「自分が一番付き合い長いからね」
「俺からしてみればさ、今日の翠なんて例えば、読者モデルやってます!で全然通りそうに見える」
「へ?モデル。あたしが。それは言いすぎだよ、さっきからさぁ。褒めようとしてくれてるのは嬉しいんだけど」
「どーかな」
「お世辞にはね、リアリティが必要なんだよ。モデルさんってリカちんみたいな人のこと言うんだから。だって……リカちんに比べたら脚は大根みたいだしなんか手の指とか短いし……、だしねえ。それは言いすぎ」
「リカちんって瀬川さんのこと?」
「そうだよ」
「誰とも比べなくていいんじゃないか。翠は翠で。俺は単純に良いって思う。例えば、こうして二人で立ってると優越感あるし」
「むっ、矛盾してる」
「そうかな」
「言ってて恥ずかしくないの」
「あんまり」
「……でもありがと」

 と、あたしは細野くんのおでこを人差し指でつつきます。彼は唇に手を当てなにやら考えていました。思ったより腕をぐっと伸ばさないと届きません。キミは背が高いんだな。そんなことに気がつきます。
 少なくとも、と彼は言います。

「俺はそんなすらっとした大根を知らない」
「そっ、そろそろあたしの話はやめない?」

 でもあたしの言葉にまるで耳を貸さず、彼は続けます。

「今日ずっと思ってたんだけど……」
「お願いだからそのまま胸に仕舞っておいて」
「その服すごい似合ってる」
「あんまり見ないで……」
「なんて言うんだ、それ。キャミソール?」
「キャミチュニック。下の方ふんわりして丈があるでしょ。でもワンピースよりは短くてだからまじまじ見ないでっ……!」
「いいじゃん。制服以外の翠なんて滅多に見られない。俺の気持ちになって考えてみ」
「あたしをいじめて楽しい」
「違う。言うなれば……そう。気障っぽくなるけど」
「この花火を見るのと同じさ……」
「あー、お前!先に言うなよ!!」
「ばーか」

 あたしはそこらにあったペットボトルを拾い上げ、キャップに捻り一閃、緑茶をぐいぐい喉に送りました。少しだけでいい、時間が欲しかったんです。それ俺の、と抗議する声が聞こえて、

「ふん!干からびるがいい!」

 でも思ったよりすぐ、ぐいぐ……くらいでボトルは空っぽになってしまいました。全然足りません。あたしは下唇を噛んでこらえました。空っぽのボトルを持ち上げてもう一度飲むふりをして二秒か三秒を稼ぎました。花火はあと何発くらい残っているんでしょう。もうやることが無くなって、すっかり軽くなったボトルの口をあんたのせいよとばかりに見つめていました。
 ぷっつりと、それまで続いていた大掛かりなスターマインが途切れました。長く鼓膜を打っていた爆発音が掻き消えて、次いで視界の明かりが無くなり辺りは暗くなりました。赤や緑の菊の花が、どぎつい原色の牡丹花火が、チカチカ光る金色の椰子があたしの目蓋の裏に焼きついていて視界に影を残します。止んだ瞬間に連発花火は思い出へ変わり始めます。一瞬の空白の後どこか遠い所から生まれた拍手がこの場所にも沸き起こりました。そうしてたちまち夜空には静寂が、地上には喧騒が持ち上がりました。
 けれどその喧騒を再び歓声に変える効果音めいた響きはすぐ暗闇のなか生まれました。地平線の向こうから人垣の影から建物のシルエットの後ろから一筋の光が現れて空に昇ろうとしていました。あたしは息をするのも忘れてそれを見つめていました。夜空のスクリーンに金色の光が高々昇っていきました。嘘くささを道々に残しながら。
 あたしに話しかけてくる細野くんの口調は思っていたよりも真剣で、

「なあ翠、……二人だけで見ないか」

 あたしがなにをと尋ねる前に彼は一言花火と言い足し、回れ右して向こうに声を張り上げました。

「なあー!飲み物買って来るけどお前らなにが良い!」


○児童公園


 河川敷に戻るつもりはなさそうでした。飲み物を買うつもりもなさそうでした。
 あたしたちは川べりに居並ぶ屋台を見向きもせず突っ切って、県道を渡り商店街を脇道に逸れてようやく足を止めた時には住宅地の隙間にぽつんと残された小さな児童公園に立っていました。先程まで囲まれていた喧騒、歓声、どよめき、大騒ぎ、そう言ったものは川べりを外れると急速に薄れていき、釣られるように、早足で歩くあたしたちの口数も減っていきました。歩いていたらお腹が落ち着いてきたこと、火薬の匂いがしなくなったこと、ウーロン茶と緑茶と紅茶は全てカメリアシネンシスというツバキ科の樹の葉であること、あたしのそんな言葉たちは少しも用をなさず暗がりに消えていきました。
 フェンスに囲われた砂場の横、ひとつだけ置かれたベンチに彼は白いハンカチを敷きこちらを振り返ります。促されるままあたしは腰を下ろしました。二匹並んだパンダと子犬のスプリング遊具に座りたかったけれど黙っていました。ブランコの距離でも素晴らしかったけれどここにはありませんでした。逃げ場の無いベンチに座って、あたしは砂を蹴っていました。彼はベンチに膝を突いて、あたしの名前を呼んで、正面からまっすぐ目を覗き込んできました。そしてそのまま切り出しました。翠、なあ翠、とあたしに言います。

「こないだは悪かった」
「こないだ」
「分かってるだろ」
「うん……」
「あれはホントに、駄目だった。ごめん。嫌な思いさせたよな」

 とりあえず俺たち、付き合わないか?

「翠に謝りたかったんだ。なんだかショック、受けたみたいだったから。俺のせいだよな。出来たら、忘れてくれると助かる」
「うん……」
「まさか断られるとは思ってなかった。まあ、俺の勘違いだったわけだ」

 とりあえずとか、そういうのは、ちょっと……。
 ごめんなさい?それって翠、どういう意味だ?

「今日はそのこと、翠に謝ろうと思ってたんだ。そのために来た。許してくれるか」

 それから、分かってるだろうけど。
 翠の唇柔らかそうだな、つやつやしてる……。グロス塗ってる?
 細野くんはあたしの肩を掴んで、顔を覗き込んできて、

「もう一度聞いてくれ。こないだのやり直し。翠には、俺の彼女になってほしい」

 翠が言った通り。とりあえずで付き合うものじゃない、っていうのは本当にその通り。分かってるだろうけど、実際そう思ってたワケじゃない。とりあえずで付き合おうと言ったわけじゃない。そういう軽いのが嫌いなのは分かる。勿論俺だって好きじゃない。多分照れ隠しみたいなものだったんだと思う。気軽に告白できるほど手慣れてない。気持ちをそのまま言えなかったのは、後で考えてみればそれだけ真剣だったからだと思ってる。
 とても言い訳にはならないけど今でも真剣なつもりでいる。翠といると楽しいんだ。もっと欲しいって思う。もっと一緒にいたいって思う。今日でまたそれが強くなった。翠のせいだな。もう一度考えてみてほしい。実は好きでしたなんてことは期待してない。今すぐ好きになってくれとも言わない。でも、付き合ってる奴は居ないって聞いた。それなら少し俺に時間を分けてほしい。解りにくいかな。前は本当はこういうことを言いたかったんだ。一緒にいて俺のことをもっと知って欲しい。一緒にいてもっと翠のことを教えてほしい。出来ることならそれから判断してほしい。彼女になってもいいかどうか。
 要求してばっかりだけど。今すぐ付き合えないって言うのは分かってるから。デートに誘ってもいいか、ってそういうこと。自分で言うのもなんだけどそんなに嫌ってはないだろ、俺のこと。顔が生理的に受け付けない、とかだったら諦めざるをえないけど。そういうわけじゃないだろ。それなら今後どうなるかはわからない。それで、彼氏が居ないんだったら一度くらいデートしても誰も怒りやしない。俺と一緒に居てつまらない?体臭がキツくて近寄りたくない?
 仮に翠に好きな人がいたとする。そしたらまずは自分の存在を知って欲しい。次に自分のことを知って欲しい。判断するならせめてそれから、って思わないか。減るのはわずかな時間だけなんだから。明日死ぬ訳じゃない。付き合ってみないと相手のことが好きかなんて分からない。いつか翠も誰かと好きあうんだから、おためし、してみればいい。選択肢は多いほうが良いだろ。もしかしたらひょんなことで、俺に転びたくなるかもしれない。翠のペースに合わせる。無理やりなんてことはないから心配しなくていい。
 そこまで一気に言い切って、彼はまたまっすぐな目であたしを覗き込んできました。
 ぱらぱらと花火の音が遠く聞こえます。

「だからそれだけ。どうかな、一回目のデート。来週くらいに」

 言い方が気に入らないなら遊びに行くってだけでいい。二人っきりなのが気に入らないなら今日みたいにグループデートにしよう。金は俺が出すし、翠は散歩に行くくらいの気持ちで来てくれればいい。勿論、今日みたいにおめかしして来てくれたら俺は嬉しい。こんなこと言うとフェアじゃないかもしれないけど、その服すごい似合ってる。なんて言うんだ。惚れ直した。
 今夜はそこそこ、楽しかっただろ?皆でわいわいってさ。時々二人っきりにもなって。デートって呼び方で固くならなくていいんだ。今日出来たことをもう一回しよう。簡単だろ?

「翠、携帯鳴ってる」

 場違いな音を響かせて携帯が震え、ごめんと断って画面を開けば『頑張れ!帰って来なくて良いぞっっ!笑』、と場違いな内容のメールがミッチから送信されてきていてそれであたしはまたひとつ逃げ道を失って、

「返事は今じゃなくていいから」

 その言葉で、あたしに順番が回ってきたようでした。
 好きかと聞いてくれれば答えられます。けれど嫌いかとすら聞いてくれない。当然嫌いじゃないはずだって言う。嫌いじゃなければ好きになる可能性はあるって言う。だからデートに誘うと言う。来週にデートが待っていると言う。嫌いじゃなければ付き合えるって言う。付き合ったら好きになるって言う。好きになるのはあたしにとって良いことだって言う。あたしは女の子で、女の子は恋したいんだって。
 あたしにはたった一つの出口しか用意されてなくて、それもあたしじゃなくてあたしたちの出口だって言う。答えはひとつだけで頷くだけでよくてその返事すらまだしなくて良いと言う。すぐに納得する。それからこくんと頷けば良いって言うんです。あたしはこう答えていました。

「今じゃなくてもいいの、返事……?」
「もちろん。アドレス、教えてくれたしな」

 小説や漫画で読むのは大好きです。だって必ず上手くいくんです。間違いなく楽しいものなんです。イケメンの執事が、あたしだけに忠実なナイトが、ちょっと気になる転校生がそこでは笑っています。長髪王子様系男子とスポーティな意地悪男があたしをめぐってあれやこれやしています。王子様に内心惹かれていたけどある嵐の日意地悪男が濡れ鼠で道を走って帰るのとすれ違いそのまま少し道を行けば電柱に紺の傘が立てかけられていてその下で段ボールに入った子猫が震えていて、実は意地悪男は天涯孤独の境遇で、素直じゃない所は人の好意を信じられない裏返しで……、そんな話を読んでいると知らず頬が弛んでリカちんに引かれたことも一度や二度ではきかないあたしです。
 「もちろん」と彼らは言うかもしれない。声を揃えて言うかもしれない。とても良いものだって。ワクワクして、ドキドキして、不安ででもその先を見てみたくて居てもたってもいられないものだって言います。世界が艶々とバラ色に輝いてまるで今まで見て来たものは全部モノクロ写真だったみたいに思えるって言います。総天然色の世界でサナギからたった今孵った蝶のように身を踊らせることそれが正しく恋愛なんだって言います。何かこの世にある間違いなく良いものの例が恋愛なんだって言います。知らないでいるのは損だって言います。とりあえずで飛び込んでみろ、何も減らない、そういうことを言います。全部事実かもしれません。あたしの勘違いで、知らないだけで、恐がりなだけなのかもしれません。
 けどそれなら、って思うんです。この気持ちも勘違いなんでしょうか。みんながみんな舞い上がって、面白くもないようなことに笑顔で応えて、一秒余さずニコニコしてなきゃいけなくて、我が身に降りかかってみるとそう重くて、息が上がって、磨り減って、緊張して、苦しくて、うんざりして、ピリピリ、クタクタ、ゾワゾワ、エトセトラ、エトセトラ……。どうして名前を呼ばれるだけでムズムズとしっくりこない気持ちになるんですか。どうしてみんなで居るのに二人ずつに分かれて話すんですか。どうしてあたしは落ち着いて花火を見ることも出来ないんですか。どうして来たくもない公園に着いて行かなきゃいけなくて、どうして当たり前のように肩を掴まれるんですか。どうして顔がこんなに近くて、どうしてあたしは思ったことを口にしてはいけないんですか。そんなの好きじゃないって、思ってもいけないんですか。

「――と、来たかったな」

 ほんの思いつきです。もしかしたら今日一緒に来るかもしれなかった誰かのことを呼んでみただけ。
 恋愛とかではないんです。そんな良いものじゃありません。もっとどうしようもなく幼稚で、見劣りして、発展性の無い、人に誇れない、野暮ったい、薄っぺらい、重要でないものだと思います。穴の開いた風船に一生懸命息を吹き込んだり猫臭い砂場で落とし穴を掘って自分で片足を踏み入れてみたり冷蔵庫のちくわにワサビを仕込んで元に戻しておいたり本当にろくでもない種類のものだと思います。全力でコーラ缶を振ったり砂時計のバストウエストヒップを測ってみたり人生ゲームの札束で頬っぺたをペチペチ叩いたり誰かに見せたらこう訊かれてしまうようなことです。ねえ、それってどこが面白いの?あたしは正解を持っていません。何も答えることは出来ません。だって彼があたしに求めてるみたいな正しさがそこには全然ありません。
 でも、でも、あたしにはそれは楽しいことのような気がしたんです。くだらないって分かってます。発展性がないって分かってます。ほんの思い付きです。もしもあたしの隣にいる人が違ったら。二人一緒に花火を見ていたら。そのこと、夏が来るたび思い出せたら。この気持ちは間違いなく恋愛みたいな素晴らしいものとは違うんですが。逢いたいなぁってそれだけ本当に思ったんです。

「ちょっと飲み物買って来るから!」

 ベンチを踏みつけ砂利を蹴り上げ、あたしはそこから抜け出しました。門をくぐって公園を出てぐるぐる宅地を縫って走って電柱の陰に隠れて後ろを振り返って誰も追っては来てなくて、それを確認したら携帯を取り出し電話帳でサ行を呼び出しやっぱり途中でやめ、携帯の電源を切りました。人の声のする方へあたしはただ駆けました。花火大会が終わったのか駅に向かって流れていく人ごみに逆らいアスファルトを蹴り出しました。まだ開いているはずの屋台通りに向かって。
 男の人の肩に当たるとあたしなんてまるで岩にぶつかったみたいに吹き飛ばされてしまって躓いては転んで転んでは起きて県道を渡って、居並ぶ屋台を突っ切って、提灯が光の筋にしか見えないくらい走って人波をかき分け背伸びをして目当ての四字が目に飛び込んできて財布を出して財布をしまって折り返してまた屋台を突っ切って今度は人の流れに乗ってでもあまりに遅いので両手で押しのけて何かに引っ掛かったビニール袋が破けて地面を転がるペットボトルを拾い上げ息が切れてでもそれはさっきと違う本当に身体が苦しいだけで、電車に乗って電車から降りてまた走って冷えた汗が新しいぬるい汗に塗り替えられて橋を渡って人が振り向いてあたしは走ってもうお気に入りのサマーチュニックが汗でドロドロでサンダルはガタガタで、そして辿りついた分譲マンションの二階207号室のインターホンを押して出てきた人の顔を見てあたしは本当にほっとしたんです。

「翠……?なにしてるの」

 倒れこむあたしをリカちんは抱きとめてくれました。でもあたしが汗だるまなのに気づいてウッと嫌な顔をするあたりはリカちん厳しくて、でもそれも当然で、申し訳なくて、あたしはお詫びにとっておきのものを差し出し、

「翠?」
「はぁ……はっ……、リカちん、これ……ウーロン茶、よかったら……」
「間に合ってるわよ」
「あとイカ焼きも……」
「頼んでないわよ……」

 リカちんは反射的に突き放そうとした手を引っ込めてあたしの身体を支えてくれました。でもやっぱり顔は物凄く嫌そうで、当然と知りつつもあたしは非常に傷つきました。そのことを伝えたけれど無視されました。ウーロン茶も全然受け取ってくれませんでした。二本もあるのに。あたしはこんなに喉が渇いてるというのに。あたしはウーロン茶と緑茶と紅茶は全てカメリアシネンシスというツバキ科の樹の葉であることをリカちんに伝えようとしたんですが口の動かし方を思い出せなくって難儀して、そうしているうちリカちんの肩ごしに、扉が開くのが見えました。

「翠、なにしてんだ……?」
「疲れた……」
「そりゃお前、汗だくじゃん。なに、走ってきたのか」
「つかれた!!」
「知らねえよ……」


○自宅


 来年は絶対バイトを入れないよーに!そうお説教するとリカちんは何言ってるんだこいつという目であたしを見てからうんと頷きました。それで満足してあたしは家に帰りました。シャワーを浴びて部屋に入ると夕方散らかし抜いた大量の服たちが疲れた身体を迎えてくれました。パジャマを掘り出しベッドに丸くなってあたしはタオルケットを被りました。
 そうして思うことは赤や黄色の花火のことではありませんでした。その後の公園のことでもありませんでした。ましてやイカ焼きにかぶりついている桜井のことなんかでもありませんでした。それは足元に広がる惨状にまつわることでした。明日起きたら片付けなければなるまい、それは確かですがそれなら明日考えればよくあたしが思ったのはそんなことではなく、急に、何の前触れも無く急に、この散乱する無数の服の中から額に汗して選びに選びぬいた今日のチュニックにショートパンツはきっと世間で言うところの勝負服にあたるんじゃないかって、あたしはそう気が付いたんです。
 あたしは思い出します。頭の上までタオルケットを押し上げシーツに挟まれきつく目を閉じ一生懸命思い出します。記憶を辿ってなんとか思い出さなければいけない。思い出すまで眠れない。必ず覚えているはずだ。それが絶対に必要だ。だってあたしは勝負服です。脚が嘘みたいにスラッと伸びて見える、ちょっとエッチっぽい、でもかわいい、奇跡の一枚が撮れてしまうような勝負服を着ていたんです。
 当然、なにか言ったはずでした。桜井はなにかを言ったはずでした。でも思い出されるのはあいつがあたしを見るなり放った「それイカ焼きか!」「サンキュー翠」「冷めてんじゃんか……」そしてそれきり電子レンジとイカ焼きに夢中になったあいつの姿で、あたしと普段会わない人でも気付いて一生懸命褒めてくれたと言うのに、イカ焼きはあたしの奢りだと言うのに、電子レンジの前で腕を組んでそわそわしているあいつの姿が目に浮かんで、あたしのことをちらりとも見ようとしないイカ焼きに頭を支配された畜生で、実に淡々たるエゴイストで、忘恩の徒そのものの姿が目に浮かんで。救いようのない屑野郎で、遺伝子レベルで屑で、笑顔がブサイクで、すぐ調子に乗って、内弁慶で、いつもカッコつけようとして失敗して、根気が無くて、サッカーの為って始めたくせに筋トレだってサボりがちで、底抜けに頭が悪くて、服なんか三着くらいしか持ってなくて、小六まで妹とお風呂入ってて、足の裏くさくて、あたしのこと見てくれなくて、男の風上にもおけない男の姿が目に浮かんで。あたしは桜井のそのありありと浮かんでくる間抜け顔の下についているお腹へキレのある右フックを放ったのでしたふん……!このやろ……!このっ……!ふん……!


暗転